が遠うの昔に想達してゐたのであるが、價値で操つり安心するところに陷穽が出來ることになり、自他共に引つかゝるのである。故に此説は上手に利用すべきで、過信は油斷の極みである。之に比べると、同し現象を認めながら、正反對に無我であると看破した釋迦の見識は透徹したものである。
五
事實網即ち歴史の考察は愼重を要し、功を急ぐべからざることは豫め注意したところであり、今又例證を得たのであるが、古來一定の方針を立て、解釋に勉めてゐるものが四つある。宗教、哲學、科學及歴史がそれである。第一に宗教は宇宙一切のことは神意に由るとなし、不都合なことは深く説明せず、知れないことは知れた如くに信じて、滿足安心するのである。實に調法な考方で、野蠻時代に發達し、年所も經ること永いのであるから、多く業蹟を殘し得て、今日でも勢力があるが、事實網の解釋に關することでは理解が惡く、負惜の強いので知られてゐる。第二に哲學は理を以て神に代へ、之を押立て、あらゆる事物を其の麾下に包攝して、價値的役割を附し、之を綜合して主觀的世界を創成するのである。この考方は夙に宗教の借用するところとなり、又風教を維持する原動力として考驗甚だ顯著なるものがある。しかしながら理想を現實と取る錯覺に罹り、自繩自縛に陷る傾向がある。第三に科學は前二者の如く、一手に宇宙の問題を引受けることを爲さず、豫め事實網につき類似の現象を選み、一區劃に纏めて徹底的に考察を掘下げ、機構の類似を見ることにより方則の樹立に到達するのである。この見方は暫も現象を離れず、萬一解すべからざるものあるも、前二者に於ける如く、自分に都合よく包攝若くは否定することなく、飽くまで現象を正しきものと取り、新なる解釋を探求するのである。この態度を洞察すれば、科學は如實に事實を認めんとするもので、之に主觀的の意味を薫染するものでない。故に科學は微視的記述であり、何時でも歴史に變形する可能性ありとすべきである。第四は即ち我歴史であるが、歴史は事實網を歴史と見て、如實に之を認識することで、何處までも事實を離れない點は科學的と稱すべきであらう。歴史は前三者の如く解釋を主として起つたものでない。しかしながら妥當な解釋は必要に應じて採用すべきであり、更に又一歩を進めて有らゆる解釋を包含せしめる見方も歴史の根本的概念に牴觸するものではない。茲に於て歴史は一切知識を綜合
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