をしてゐると云ふべきか、經緯をなしてゐると云ふべきか、到るところに出て來る。凡そ古今東西の書物で自然と云ふ語をかくも多く用ひてゐるのは斷じて無いと思はれる。此事だけを以て見ても、自然と云ふ事が安藤にとつては如何に大事のものであつたかと云ふことは認めざるを得ない。申す迄もないことだが、自然は安藤ばかりにではなく誰人にも大事なのである。眞に大事ではあるが其あまりに大事であることが祟つて、常人にはその大事である事が往々忘れられる傾きがある。例へば親兄弟や、水や、空氣や、大地や、太陽や、それ其自然其物の有難いことを忘れる樣なことはないとは限らぬであらう。其位のことは能く知つてゐると云ふ人もあらう。如何にも事實としては野蠻人も知つてゐる。しかし文化が開けて來ると忘れる人が出來るやうになり、さては着物とか金とかばかりを有難がり、進んでは思想を有難がり、さうしたものを多く所有する族を尊んだり羨しがつたりして、其結果が親に孝行を盡すことを舊弊と取つたり、米を供給してくれる農民を賤しいものと取つたりする樣なこととなる。是はどうした事ぢや。自然を忘れたからである。有難い自然を忘れ勝になる人に自然の正體を見
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