ンのみで生きるのではないと横鎗を入れることも出來る。しかしさう云ふ人も論より證據、矢張パンを必要とするとあつては、生命を支ふる一番大切なるものは食物であることは異論のあるべき筈がないので、其他のものは二次的三次的に考へらるべきものであると云はなければならない。此事實は三歳の童子も知つてゐる。いや生れたばかりの赤坊も自然に知つてゐるほど、それほど人間にとつては大切な事である。もしこの大切なる事實を忘れる樣な不埒ものがあつたら、命を失うたからとて不平も云へない筈である。此大切なる事實に直面して安藤は同胞の反省を促し覺醒を求むること痛切なるものがある。
安藤曰く、かの農民を見よ。農民は自ら直に耕し[#「自ら直に耕し」に白丸傍点]て食ひ、以つて獨立の生活を營むもので、端的に此大切なる事實を實現しつつあるのではないか。さうした生活の模範を示すところの直耕[#「直耕」に白丸傍点]の農民は、道理の上から須く一番貴まれなければならない筈であるのに、常に下にしかれて貧乏に苦しんでゐる。之に反し自ら耕さず[#「耕さず」に白丸傍点]して他人の耕したものを贅澤にも貪る如くに食[#「貪る如くに食」に白丸傍点]つて生活する徒食者は、獨立しては立行けぬもので、實に憐むべきものである。しかるにも係らずさうした不耕貪食[#「不耕貪食」に白丸傍点]の徒は常に農民の上に位し、安逸な樂みをなしてゐる。實に不公平な不都合なことで、全く面白くない世相である。かう安藤は觀察したものである。ところが世界孰れの國に在つてもこの面白くないことが行はれてゐるといふことに氣付いて見ると所謂教だの政だのいふものは一體何所を目標としてゐるのかと憤慨して見たくなるのである。此見地に立つて安藤は治國平天下の代表者聖人孔子を罵り、救世の代表者世尊釋迦をも呵り付けるのである。もし彼が此特色ある問題を提げて起つたとすれば彼は歐米の主義者の先驅者となつたであらう。
然るに彼の透徹性は茲に止ることを許さず、彼をして百尺竿頭一歩を進ましめ、何故に治國救世を標榜する政や教が揃ひも揃つて、しかく無能であつて、世間の惡黨をも退治することも出來ず、又古今東西に亙つて行はるる不公平をも匡正することが出來ないのであるかと問はしめたのである。彼は自ら此窮極的なる問題を提出し、其解決を求めんがため博く深く考察を運らし、是を法世に囚れたる人に聞くを欲せず、人皇時代を通拔け、神代を突破し、遂に原始時代に突貫したものである。其間彼が歴史に對する面白い觀察もあるが略することとする。偖て原始時代に遡つて見れば其所にはあらゆる事物の搖籃が見出され、而して其搖籃の中に育ちつつある事物の起原が夫れ自身の詐らざる告白を爲すことに由つて、彼はやつと彼の提出した大問題の解決方法を考付いたのであつた。夫れから後は一瀉千里、完全に此大問題を解決することが出來たと思つた。彼が搖籃の中に見出したと云ふものは腕力であつた。同時に智力もあつた。其腕力それから智力、それから金力、それから夫等の力によつて組立てられた階級、分業、政治、法律、宗教、學問、あるとあらゆる制度文物が悉く間違つてゐると思うた事柄の原因をなしてゐると云ふことが、彼にとつては疑ふことの出來ない事實となつた。彼が茲に氣付いた時に靜に法世を棄てようとの決心を定めた。最早彼は法世に生息し法世を有難く思うてゐる人達を罵倒したり相手にしたりする遑がない。寧ろ法世其物を棄てなければならないのである。然らば先其教を棄てよう、其政を棄てよう、其文字言語をも棄てよう、よろしい思想其物迄も棄ててしまへ。是が彼の喚びである。かくして彼は遂に思想の虚無主義に立つことを餘儀なくせられたのである。
破邪之卷二十餘卷は如上の意氣考察を以て書綴られたもので、實に極端なる懷疑の眼を以て思想、言語、文學、政治、宗教其他一切の人爲的施設と及び此等の事に携はつた偉人物を批評したものである。批評し去り批評し盡し何等採るべきところなしと見て、安藤は遂に法世其者を棄てようと決心し、棄て得る限りの總ての物を棄て去つた所で、尚且つ棄てようとしてもどうしても棄てられない物が殘つた。そは何ものである。曰く自然[#「自然」に白丸傍点]。
自然は最後の事實である。所謂論より證據の最も優れたる標本で、思慮分別を離れてその儘に存在する。その一切を許容し包容し成立せしめて、更に是非曲直美醜善惡を問はない所に實に測るべからざる偉大さがしのばれる。此自然を人々の思慮分別に由て如何に觀るかと云ふ事が、軈て科學者を生じ哲學者を生じ宗教家を生ずる。安藤は既に法世の思想を棄てると力み、虚無主義に立つたこと故、彼は自然其儘を直觀しようと勉めた。其主觀的思索を藉らず、虚心坦懷に自然に聞かうとした所は實によく科學者の態度に近かかつた。然らば彼は科學者であつ
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