の知識も可なり廣く持つてゐたのである。顯正之卷六十餘册は彼の學殖を現はすものであつて有らゆる方面に亙り、量に於ては不足を云へない。しかし遺憾ながら取るべき所が甚だ少ない。或は歴史上の捏造説を看破したり、動物と其食物との形體の類似を推考したりして、頗る人を驚かすに足る奇論も吐くが、至る處に五行論を振※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]すのは甚だ惜まざるを得ない。しかし是は科學的知識の缺乏に歸すべきもので、當時に在つては致方のない事であつたらう。そこで私は此以上奇説や罵倒を聽くことを止め、彼の尤も重きを置いた救世觀を説明し終つたところで、一寸その概評を試みる。
先づその救世觀を一瞥すれば、法世とは個人的に人慾を助長する制度文物の世の中。自然世とは衆人的に人慾を滿足せしむる制度文物の世の中。共産は個人慾病の下劑。科學は個人慾病衆人慾病共通の良劑。而して食物は必要缺くべからざるものなるが故に衆人農業を基ゐとして食物の充實に勉むること、とかうなるのである。其歸農充食に重きを置くに鑑み、彼の救世は救生であると云へよう。
凡そ絶對性を帶びたる獨尊不易などいふ考へ方の大概間違つてゐることは、歐洲の思想界に在つても餘程前から知られて來た。それ故また急激の思想を調停するに都合のよい宛然哲學など云ふ折衷説も出來てゐる。世界大戰以來は實際の例證が多く提擧せられ、普通人も往々知ることになつたので、何等深き思慮のない者が雷同することが起ると危險甚しきものがある。實に二十世紀は容易ならぬ時となつた。この時に當つて二千年から前の釋迦や基督の稱へた救世の樣なことを持出すのは時代錯誤の話であると思ふ人もあらう。強ちさうでもない。救世と云ふ語は陳腐ではあるが、其實は今日の改造である。兎に角有難いことの樣に聞える。釋迦や基督の救世は心や靈の上に在つたが、安藤は之を肉體に及ぼし何から何まで救ふと云ふのであるから面白い。儒教も略同一の見方をしてゐるが安藤ほど根本的ではない。孰れの國家に在つても救世的の施設を要することは明白なることで、是は國民に對してどうしても爲さざるを得ないところである。そこで世界に於ける今日の政治が宗教などの力を借りて應急の救世を講じて見ても萬一旨く行かないとすれば、救ひを求むる者に不平の起ることは必死の勢ひであらねばならぬ。而して求むるものと與ふるものとの間に甚しき間隙を生ずれ
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