りとするは、所謂安藤の無學の致すところで、かかる誤謬の例は外にも多く見出さるるのである。しかし大體に於て聖人が自然現象に好きな解釋やら意味を加へて自分に都合の好い樣に勝手に價値觀を拵上げるところを指摘したものとしては有效と認める。
 以上序での事に安藤の文章を引用して見たものの、拙い上に脱字あり誤字あり當字あり、彼一流の用語あり、中々分り難いのである。例へば異然とは以前のこと轉定とは天地のことで、かうした新語を使用されるので私も暫くの間は能く分り兼ねたものであつた。彼の根本的思索の記述に至つては其性質上からも甚だ解し難く、其應用を見るに及んで漸く其意味のあるところを察することを得たのである。
 自然の作用として見らるるものに互性活眞の外に進退の考へがある。是は因果法に代るもので、通横逆の三つの形ちに現れることは前に引用したところにも見えてゐる。是は善因善果惡因惡果の如き殆ど自明の理とは事かはり甚だ了解し難いものである。のみならず彼の五行論と出入して複雜を極め、到底通俗の解述を許さない。故に之を評論することは容易の仕事でない。然るに幸にも救生の考へには更に用のなきことになつてゐるから旁※[#二の字点、1−2−22]割愛することとする。互性活眞は進退に比べて簡單ではあるが、安藤の敍述は極めて不充分であるから、彼の考へに基づき私が補足することとする。

      五 互性活眞

 近世哲學の父と呼ばれるデーカルトは我考ふ故に我ありと云つた。よく人に知られた語である。此語の意味は何者を疑ふことが出來ても、疑つてゐる自分自身の存在を疑ふ譯には往かないし、その又自分自身の存在を知らせるものは自分の心であるから、其心は即ち最後の確かなる存在であり、其心によつて自分の存在が初めて分つて來ると云ふのである。一應尤に聞える。そこで彼は是を以て彼の哲學の出發點としたものである。其哲學の是非は今問題とするところではないが、此語を鵜呑にすると忽ち唯心病に罹る恐れがあり、また流石のデーカルトも其當時彼が目的としたことにばかり注目して、此語を成立せしむるに必要なる心理的條件などを考へる暇がなかつたではないかと思はるるから、一つ吟味して見ることとする。
 凡そかかる抽象的なる思索を爲すことの出來るのは、一歳や二歳の赤坊に望むべからざることで、必ずや相當成熟したる心の持主でなければならない。さうし
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