」「俺もさっきからそう思っているんだ」。こんな会話が白い息を吹きながらとりかわされる。谷を登りきると目の前に卵湯のあかりが谷の向こうに見えた。目ざすところはもっと上だ。「きましたよ」と孝ちゃんが明りに輪かくを浮かせていう。雪がちらちら降ってきた。道に飛ぶと、もう温かそうな湯の宿のあかりが見えた。あだち屋の炉辺に、雪のついた靴を脱いで、燃えさかる火を顔にうけた時には、なんともいわれぬいい気持ちだった。さっきのかんじきの跡は、ここの番頭が今朝歩いたんだそうだ。硫黄の匂いが鼻をつく。リュックサックからボールのような手拭を出して湯に入った。高い天井の湯に、暗いあかりがともっている。
三十一日
今日は大変な天気だ。吾妻登山をするなら微温湯《ぬるゆ》にまで行かねばならぬ。とにかく昼までは暇なので孝ちゃんのお餅をむやみと食った。ウ氏とヴンテンさんが天気を見に行った。どうも本当でないので、帰ることにした。静かな谷の湯の宿に別れを告げて谷に沿うた道を二本杖で滑り下りる。雪は氷のようになっているからスケートのようだ。ステンメンの足が、疲労することおびただしい。二十分で土が出た。二里の道を庭坂駅に着いた時には、後に昨日の山が雪ぞらの下に、雄大に見えた。停車場の窓から、ああ、あすこを下ったのだなと思うと嬉しい。お餅を食って汽車を待った。一時間汽車にゆられて板谷駅に下りると、はげしい雪が降っている。日が暮れてから温泉に帰りついた。
[#地から1字上げ](大正八年三月)
底本:「山と雪の日記」中公文庫、中央公論社
1977(昭和52)年4月10日初版
1992(平成4)年12月15日6版
底本の親本:「山と雪の日記」梓書房
1930(昭和5)年3月
入力:林 幸雄
校正:田口彩子
2001年12月8日公開
2005年11月24日修正
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