とはこんな感じであろう。あたりは、いたって静かだ。相変らず蝶を呑むいわなが水の中を動いている。水の中に悪魔がいる。大正池は魔の池である。

      上高地の月

 井戸の中の蛙が見たら、空はこんなにも美しいものかと、私はいつも上高地の夜の空を見るたびに思った。空の半分は広い河原を隔てて、僅か六町さきの麓から屏風のようにそそり立った六百山と霞沢岳のためにさえぎられて、空の一部しか見ることができない。夜になると、この六百と霞がまっ黒にぬりつぶざれて、その頂上に悪魔の歯を二本立てたような岩が、うす白く輪かくを表わす。そしてこの大きな暗黒の下に、広い河原を流れる梓川の音が凄く、暗闇に響く。ある日この頂上の上に、月が出た。小さいが、強い光の月だ。白い雲が、悪魔の呼吸のように、白い歯の影から、月を目がけて吹きかけて行くが、月のところにくると光にあった幽霊のごとくに消えうすれて行く。時には、月が動いているようにも見えた。霞の暗黒の下で、広い河原が月に照らされてその中の急流に、月が落ちて、くだかれて洗われている。水の面には白い霞がたなびいて、そこから風が起こるのか、すぐ傍の柳は、月の光を吸いながら、ゆるやかに動いていた。河辺にたつと月の光はくだけているばかりか、水の中に浸みこんで行く。河に沿うて、高峰の月を見ながら、流れの音を聞きながら歩いた。夜露がすっかり草の上に下りて、あたりの空気はひどくしめっぽかった。白樺が闇に浮く路を、黙って歩くと、いい得ぬ思いが胸にわく。焼は少し白く見えた。穂高はほとんど暗かった。いま穂高の上にいたらばと思って、一人でくやしかった。

      霞沢岳

 頂上は狭い。三角標の下に腰を下ろすと、そこいらのはい松の上で、ぶよのなく声が聞えてくる。日光は、はい松の上にも黄色い花の上にも一面にあたって、そこらの植物は光を迎え、その愛にひたっているように見えた。美わしい美わしい空の下に上高地の谷をへだてて、手のとどきそうなすぐ前に、穂高の雄姿が、岩の襞を一つ一つ、数えられそうに見える。麓からじき上に、緑の草の萌えて見える谷に、Y字形の雪を残して、それから上に、右手には前種高への岩が、はげしい鋭さをもって、ギザギザと頂上まで押し立っている。正面には奥穂高が、黒い岩、雪を光らして、それに続く。この尾根は左へほこを立てたような、いくつかの峰々を越えて、やがて木に
前へ 次へ
全11ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
板倉 勝宣 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング