る再三に及べば滋味の津々たるを覚ふ。詩歌の妙実に一分は声調に存する也。
 此に於てか正に知るべし、「詩形」の進歩は実に「音楽」の進歩に伴ふことを、「声音」の学発達するに非んば「詩形」奚《なん》ぞ独り発達するを得んや。
 和歌者流曰く三十一字にして足る、何ぞ故《ことさ》らに新しき形を要せんと、殊に知らず、昔しの淳朴なるや、「八雲立」「難波津」の歌猶之を誦して、人をして感ぜしむるに足れり、今に至つては猶此緩慢なるものを須《もち》ゆべけれんや。宜《むべ》なるかな、人は「君が代」よりも「梅の春」を聴んと急ぐや。嘗て英国の国歌を誦するを聴く、声昂り調高し鼓舞作興の妙言ふべからず、誠に大国の音《おん》なるが如し。古の詩形を以て今の耳に訴へんとす、猶古代の燈を以て今の電燈に代へんとするが如し。
 新体詩家宜しく音楽の理に於て通ずる所あるべし、音と人心との関係に於て詳《つまびら》かにする所あるべし。斯の如くにして詩形始めて生ぜん。
 人、怒れば其声|励《はげ》し、其声励しければ即ち句々断続す。人喜べば其声和す、其声和すれば即ち句々|繚繞《れうぜう》して出づ、七情の動く所、声調乃ち異なり、詩人たる者此理を知らざるべからず、而して此れ文典の教へざる所、詩律の示さゞる所、之を弁知すべきもの唯耳あるのみ。
 今の新体詩を把つて之を誦し、字を解せざる者をして之を聴かしめよ、若し果して彼等をして首肯せしむれば、即ち新体詩も亦一日の其生命を長ふすべきものある也。
「形」は方便なり、方便は目的に因つて異なり。今の新体詩を作る者、其志唯人をして之を読ましめて以て其感を起さするに在らば、吾人は寧ろ散文に因て其詩想を発揮するの優《すぐ》れるを見る。若し夫れ期する所は天下に風詠せしめて、永く之を口碑に伝へんとするに在らば、吾人は更に一段の工夫を要するを知る也。
 曰くオッペケペー、曰くトコトンヤレ、其音に意なくして、其声は即ち自ら人を動かすに足る。新体詩人の推敲《すゐかう》百端、未だ世間に知られずして、堕落書生の舌に任じて発する者即ち早く都門を風靡《ふうび》す、然る所以の者は何ぞや、亦唯耳を尚《たふと》ぶと目を尚ぶとに因る耳《のみ》。
 之れを聞く、昔し安井息軒先生、青楼に上り、俚謡を作りて曰く、
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つりがねをみんなおろして大砲とやらに鋳たらつくまいあけの鐘、
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