ので、これは屹度《きっと》、自分に早く帰らそうとしての事だと思っていたが、強《あなが》ち、そうばかりでもなかったらしい、何をいうにもこんな陰気な家で、例の薄暗い仏壇の前などを通る時には、私にもあまり好《い》い気持がしなかったが、何分《なにぶん》安値《やす》くもあるし、賑《にぎや》かでもあったので、ついつい其処《そこ》に居たのであった。
すると、秋の或《ある》月の夜であったが、私は書生一人|伴《つ》れて、共同墓地の傍《わき》に居る知己《ちき》の家を訪ねた、書生はすぐ私より先《さ》きに帰してしまったが、私が後《あと》からその家を辞したのは、かれこれ十一時近い頃であった、何分《なにぶん》月が佳《い》い晩なので、ステッキを手にしながら、ぶらぶら帰って来て、表門へ廻るのも、面倒だから、平常《ふだん》皆が出入《でいり》している、前述の隣屋敷の裏門から入って、竹藪を通抜《とおりぬ》けて、自分の家の庭へ出ようとした、四隣《あたり》は月の光で昼間のようだから、決して道を迷うはずはなかろうと、その竹薮へかかると、突然|行方《ゆくて》でガサガサと恰《あだか》も犬でも居るような音がした、一寸《ちょっと》私も驚いたが、何かしらんと、月光《つきあかり》を透して行手《ゆくて》の方を見詰めると、何も見えない、多分犬か狐の類《るい》だろう、見たらこの棒でくらわしてやろうと、注意をしながら、四五歩前に出ると、またガサガサ、此度《こんど》は丁度《ちょうど》私の家と隣屋敷との境の生垣のあたりなので、少し横に廻って、こっそりと様子を窺《うかが》うと、如何《どう》も人間らしい姿が見えるのだ、こいつは、てっきり盗賊《どろぼう》と思ったので、思切《おもいき》り大声を張上《はりあ》げて「誰だ!」と大喝《だいかつ》一声《いっせい》叫んだ、すると先方《さき》は、それでさも安心した様に、「先生ですか」というのだ、私はその声を聞いて、「吉田《よしだ》君かい」というと、「はい、そうです」答《こた》えながら先方《さき》は此方《こちら》を向いて来て、二人が近寄ってみると、先刻《さっき》帰した書生なので、「君は、一躰《いったい》如何《どう》したのだ、僕は盗賊《どろぼう》だと思ったよ」と笑いながら云うと、吉田は実に不思議だといったような顔をして、「先生、僕は今実に酷《ひど》い目に会いましたよ」と云いながら語るのを聞くとこうだ。
先刻《さっき》、八時頃先方の家《うち》を出て、矢張《やっぱり》この隣の裏門から入ったが、何しろこんな月夜でもあるし、また平常《ふだん》皆が目表《めじるし》に竹の枝へ結付《むすびつ》けた白い紙片《かみきれ》を辿《たど》って、茶席の方へ来ようとすると、如何《どう》したのか、途中で道を失って、何時《いつ》まで経《た》っても出られない、何処《どこ》をどう歩いたものか、この二時間あまりというものは、草を分けたり蔓《つる》に絡《からま》ったりして、無我夢中で道を求めたが、益々《ますます》解らなくなるばかり、偶然《ふと》先方《むこう》に座敷の燈《あかり》が見えるから、その方へ行こうとすると、それがまた飛んでもない方に見えるので、如何《どう》しても方角が考えられない、ついぞ見た事のない、谿谷《たに》の崖の上などへ出たりするので、自分では確《たしか》に気は付いていたようだが、急《あせ》れば急《あせ》るほど解らなくなって、殆《ほと》んど当惑していると、突然先生の声がしたので、初めて安心しました、と息をはずましながら談《はな》して、顔の色も最早《もう》真蒼《まっさお》になっていたので、二人ながら大笑《おおわらい》しながら、それからは無事に家に帰ったが、如何《いか》にも、この家《うち》というのは不思議な所で、後《のち》に近所で聞いてみると、怪物《ばけもの》屋敷という評判で、人が決して住《すま》まわないとの事だった、その怪物《ばけもの》の出る理由に就《つい》ては、人々のいうところが皆|異《ちが》っているので取止《とりと》めもなく、解らなかったが、その後《のち》にも、また他《ほか》の書生がこんな事に出会ったりなどして、如何《いか》にも気味が悪《わ》るかったから、安値《やす》くってよかったが、とうとう御免|蒙《こうむ》ったのであった。
底本:「文豪怪談傑作選・特別篇 百物語怪談会」ちくま文庫、筑摩書房
2007(平成19)年7月10日第1刷発行
底本の親本:「怪談会」柏舎書楼
1909(明治42)年発行
入力:門田裕志
校正:noriko saito
2008年9月25日作成
青空文庫作成ファイル:
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