し、宝寺に至って、秀吉に対面した。使者の趣を聞き終った秀吉は、「御家の重臣柴田殿をどうして疎略に考えよう。爾後《じご》互に水魚の如くして、若君を守立て天下の政務を執《と》りたいものである」と答えた。使者達は大いに喜んで、誓紙を乞うた。処が秀吉は、「それこそ、こちらから願い度き物であるが、某一人に限らず、丹羽、池田、森、佐々等にも廻状を遣《や》り、来春一同参列の上、取替したがよいであろう。殊に我々両人だけで、誓紙を取替したとあっては、他への聞えも如何《いかが》であろう」と云って拒絶して仕舞った。尤な言分なので、使者達も、それ以上の問答も出来ず、帰った。勝家委細の報告を受けて、来春には猿面を獄門に曝《さら》すぞと喜んでいたが、こうして秀吉に油断をさせていると思っていた勝家は、逆に秀吉に謀《はか》られて居たのである。秀吉は使者を送り還すや、家臣を顧みて笑って曰く、「勝家の計略、明鏡に物のうつる如くにわかって居る。この様な事もあろうかと思って、彼が足を清洲にて括《くく》って置いたのだ」と。即ち湯浅甚助を呼出して、汝は長浜に行き、伊賀守勝豊並にその与力共を弁舌もて味方に引入れよ。長浜引渡の時、彼等と親しくして居た汝のことだから仔細もあるまい、と命じた。甚助心得て長浜に来り、勝豊の家老徳永石見守、与力山路将監、木下半右衛門等を口説いた。今度秀吉方につくならば、各々方も大名に取立て、勝豊はゆくゆく、北国の総大将になるであろうなど、朝夕《ちょうせき》説くので、家老達の心も次第に動いて勝豊にまで励めることになった。流石《さすが》に始めは勝豊も父に弓引く事を恐れて承知しなかったが、ついには賛成した。元来勝豊自身、勝家の養子ではあるが、勝家には実子|権六《ごんろく》がある上に、病身であって華々しい働もないので疎《うと》んぜられて居たのだから、勝家に慊《あきた》らない気持はあったのである。ある年の年賀の席で、勝家の乾した盃を勝豊に先じて、寵臣佐久間盛政が執ろうとしたのを、勝豊盛政の袖を引いて、遠慮せしめたことなどさえある。此他種々の怨が、甚助の弁と相まって、勝豊に父を裏切らせるもととなったのである。勝豊の裏切りを見越して、長浜を体よく勝家にゆずって置いたわけである。かくて秀吉の戦闘準備は、勝家の知らぬ間に、著々と進められて居たのである。

       秀吉、濃、勢、江、出馬之事

 清洲会議の結果、三法師丸を織田家の相続とし、信雄、信孝が後見と定《きま》って居たのであるが、秀吉は、安土城の修復を俟《ま》って、三法師丸を迎え入れようとした。然るに岐阜の信孝は、三法師丸を秀吉の手に委ねようとしない。秀吉をして三法師丸を擁せしめるのは、結局は信孝自身の存在を稀薄なものとさせるからである。秀吉ついに、丹羽長秀、筒井順慶、長岡(後の細川)忠興《ただおき》等三万の兵を率いて、濃州へ打って出でた。先ず、大垣の城主|氏家《うじいえ》内膳正を囲んだが、一戦を交えずして降《くだ》ったので、秀吉の大軍大垣の城に入った。伝え聞いた附近の小城は風を望んで降ったので、岐阜城は忽ちにして取巻かれて仕舞った。信孝の方でも、逸早《いちはや》く救援を勝家に乞うたけれども、生憎《あいにく》の雪である。勝家、猿面冠者に出し抜かれたと地駄太踏むが及ばない。そこへ今度は佐久間盛政の注進で、長浜の勝豊|謀叛《むほん》すとの報であるが、勝家、盛政が勝豊と不和なのを知っているので、讒言《ざんげん》だろうと思って取合わない。しかし、勝豊の元の城下、丸岡から、勝豊の家臣の妻子が長浜に引移る為に騒々しいとの注進を受けては勝家も疑うわけにはゆかない。驚き怒るけれども、機先は既に制せられて居る形である。岐阜の信孝も、勝家の救なくては、如何ともし難いので、長秀を通じて秀吉と和を講じた。秀吉即ち信孝の生母|阪《ばん》氏並に三法師丸を受け取って、和を容れ、山崎に帰陣した。三法師丸は安土城に入れ、清洲の信雄を移り来らしめて後見となした。天正十年十二月の事で、物情|恟々《きょうきょう》たる中に年も暮れて行った。
 明くれば天正十一年正月、秀吉、かの滝川一益を伊勢に討つべく、大軍を発した。秀吉としては天下の形勢日々に険悪で、のんびりと京の初春に酔い得ないのであろう。丹羽長秀、柴田勝豊をして勝家に備えしめて後顧の憂を絶ち、弟羽柴秀長、稲葉一徹等を第一軍(二万五千)として、近江甲賀郡|土岐多羅越《ときたらごえ》より、甥三好秀次、中村|一氏《かずうじ》等を第二軍(二万)として大君畑《おぼじ》越より、秀吉自らは第三軍(三万)を率いて安楽越よりして、伊勢に侵入した。この安楽越の時、滝川方で山道を切り崩して置いたので軍馬を通すのに難儀した。ある処では馬の爪半分ほどしか掛らない位であった。そこで馬の口を取るものが一人、尾を取るものが
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