わるや、陣中動揺して、何時の間にか密かに落ちゆく軍勢多く、僅か二千足らずになった。勝家嘆じて、盛政、血気に逸《はや》って我指揮に随《したが》わず、この結果となったのは口惜しいが、今は後悔しても甲斐なきこと、華かな一戦を遂げたる後、切腹しよう、と覚悟した。毛受《めんじゅ》庄助進み出て「今の世に名将と称せられる君が、この山間に討死あるは末代までの恥である。よろしく北の庄に入って、心静かに腹を召し給え」と勧め、自らは勝家の馬印をもって止り防がんことを乞うた。勝家、庄助の忠諫を容れ、金の御幣の馬印を授けて、馬を北の庄へと向けた。庄助、兄茂左衛門と共に三百騎、大谷村の塚谷まで引退いて寄せ来る敵と奮戦して、筒井の家来、島左近に討たれた。
勝家、其間に北の庄指して落ちたのであるが、前田利家の府中城下にさしかかった時は、従う者僅かに八騎、歩卒三四十人に過ぎない。利家招じ入れると勝家、年来の誼《よしみ》を感謝して落涙に及んだ。勝家、利家に「貴殿は秀吉と予《かね》て懇《ねんごろ》であるから、今後は秀吉に従い、幼君守立ての為に力を致される様に」と云った。利家は、朝来、食もとらない勝家の為、湯漬を出し、酒を勧めて慰めた。夕暮になって、乗換の新馬を乞い、城下を立ち去ったが、嘗つての瓶破《かめわり》柴田、鬼柴田の後姿は、悄然《しょうぜん》たるものがあったであろう。
四月二十三日、越前北の庄の城は、既に秀吉の勢にひしひしと囲まれて居た。勝家は城|諸共《もろとも》消え果てる覚悟をして居るので、城内を広間より書院に至るまで飾り、最期の酒宴を開いて居た。勝家の妻はお市の方と云って、信長の妹である。始め、小谷《おだに》の城主浅井長政に嫁し、二男三女を挙げたが、後、織田対朝倉浅井の争いとなり、姉川に一敗した長政が、小谷城の露と消えた時、諭《さと》されて、兄信長の手に引取られた事がある。清洲会議頃まで岐阜に在って、三女と共に寂しく暮して居たが、信孝勝家と結ばんが為、美人の誉高い伯母お市の方を、勝家に再嫁せしめたのである。勝家の許に来って一年経たず、再び落城の憂目を見る事になった。勝家、その三女と共に秀吉の許に行く様に勧めるが、今更生長える望がどうしてあろう、一緒に相果てん事こそ本望であると涙を流して聞き容れない。宵からの酒宴が深更に及んだが、折柄、時鳥《ほととぎす》の鳴くのをお市の方聞いて、
[#天から3字下げ]さらぬだに打寝る程も夏の夜の夢路をさそふ郭公《ほととぎす》かな
と詠ずれば、勝家もまた、
[#天から3字下げ]夏の夜の夢路はかなき跡の名を雲井にあげよ山郭公
二十四日の暁方《あけがた》、火を城に放つと共に勝家始め男女三十九人、一堂に自害して、煙の中に亡び果てた。勝家年五十四である。お市の方は、生涯の中《うち》二度落城の悲惨事に会った不幸な戦国女性である。秀吉もかねて、お市の方に執心を持っていたので、秀吉と勝家との争いにはこうした恋の恨みも少しはあったのであろう、という説もある。お市の方の三女は、無事秀吉の手に届けられたが、後に、長女は秀吉の北の方淀君となり、次は京極宰相高次の室に、末のは将軍秀忠の夫人となった。戦国の世の女性の運命も亦不思議なものである。
盛政は勝家の子権六と共に捕われ、北の庄落城前、縄付きの姿で、城外から勝家に対面させられている。権六は佐和山に、盛政(年三十)は六条河原に、各々斬られた。信孝(年二十六)も木曾川畔に自決して居る。清洲会議の外交戦に勝った秀吉は茲《ここ》に全く実力の上で、天下を取ったわけである。
後記
[#ここから2字下げ]
この合戦記を作るに際して、
『余呉床合戦覚書』及び『別本余呉床合戦覚書』上下を主たる参考本とし、諸本によっては人名の多少異るものがあるが今は総《すべ》てこの覚書に従った。
他に参考としたものは次の如し。
柴田退治記
これは合戦の当年天正十一年十一月大村|由巳《よしみ》の著したもので最も真実に近いが故に、これによって訂正した処がある。
賤岳合戦記
太閣記
川角《かわずみ》太閣記
豊鑑《ふかん》
豊臣記
蒲生氏郷記
佐久間軍記
清正記《せいしょうき》
脇坂家伝記
並に
近世日本国民史
豊臣時代史
日本戦史
柳瀬役《やなせのえき》
[#ここで字下げ終わり]
底本:「日本合戦譚」文春文庫、文藝春秋社
1987(昭和62)年2月10日第1刷発行
入力:網迫、大野晋、Juki
校正:土屋隆
2009年9月10日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
前へ 終わり
全8ページ中8ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
菊池 寛 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング