け》がある! 腑分がある!」
 彼は、喜悦の声を揚げながら、一座の者にその書状を指し示した。それは、いかにも町奉行|曲淵《まがりぶち》甲斐守の家士、得能万兵衛から、明四日千住骨ヶ原にて、手《しゅ》医師何某が腑分をすることを、内報してきた書状だった。
「腑分が! 腑分が!」
 皆は、口々に欣びの声を出した。
 淳庵、玄適、玄白など、オランダ流の医術に志すものにとっては、観臓は年来の宿願だった。が、その機会は容易に得られなかったのだ。
 ことに、彼らは今日この頃、バブルから、身体内景の有様を新しく聞いていたので、腑分に対する宿望は、更に油が注がれたように燃えていた。
 ことに、玄白は腑分ときくと、自分の心が飛揚するのを抑えることができなかった。彼は、ターへルアナトミアを手にして以来、腑分の日を一日千秋の思いで待っていた。彼はターヘルアナトミアの絵図が、古人の諸説とことごとく違っているのを知っておった。彼は、それを実地に照して、一日も早く確めたかったのである。
 一座の人々の顔は、欣びに輝いていた。
「それでは、今夜はただちに帰宅して休息いたし、明日《あした》早天に、山谷町出口の茶屋で待ち合わすことにいたそう」
 淳庵は、座中を見回していった。一座は、すぐそれに同意した。
 その時に、玄白の頭の中に、ふと良沢の顔が浮んだ。彼は、良沢がやはり観臓の希望の切なことを知っていた。一座の誰にも劣らないほど、切なのを知っていた。たとい、良沢がこの席にいあわさずとも、明日の一挙にもらすべき人でないことを感じていた。
 が、彼は良沢の名を、気軽に口にすることができなかった。良沢に対する軽い反感のために、たやすく口にすることができなかった。その上、彼の心の一隅には、日頃一座に対して高飛車な、見下《みくだ》したような態度を取っている良沢が大切な企てにもれることを、いい見せしめ[#「見せしめ」に傍点]だと思う心が、かすかではあるが動いていた。
 それに、誰もが良沢のことに気がついていない以上、自分が特に注意するにも、当らないと思っていた。
 が、一座がそのままに立ち上りそうになると、玄白の心は、だんだん苦しくなっていた。軽い苛責が彼の心を鞭打った。彼は、良沢に対する自分の態度の卑しさに、気づかずにはおられなかった。
 彼は、とうとう黙ってはおられなかった。
「前野氏がいる! 前野氏がいる! 
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