》しい笑顔が浮んでくる。結婚の当時、彼女は十六になったばかりであった。赤いてがらのかかった大丸髷が、彼にはまたなく、いじらしく考えられた。彼の足は矢も楯も堪らないように、故郷の方へ向いていた。
彼が、奈良から、伊賀街道を伊勢に出《い》で、桑名に達したのは、一月の十二日であった。
彼は故郷へ帰って来たものの、心ひそかに藩からのお咎《とが》めを恐れていた。が、それ自身危急に瀕している藩は、こうした敗兵たちに対する処分などは、思いも及ばなかった。むしろ、次々に馳せ帰って来る敗兵たちから、上国の形勢をきくことを、欲していたのであった。
妻のおもとは、格之介の不時の帰宅を小躍りして欣《よろこ》んだ。格之介も、自分の行動がいい結果に終ったことを欣んだ。厳密にいえば――うまくいい訳が立っても、落伍の罪がなんのお咎めもなく済んだことを、格之介はこの上なき僥倖に思った。
差し迫る一藩の大事に脅えながらも、蜜のような歓楽の日が、この若い夫婦の間に、幾日か過ぎた。それが、再び恐ろしい不幸によって、めちゃめちゃにされるまで。
敗兵お召出しの個条が、官軍からの御沙汰にあるときいたとき、格之介は色を失った。錦旗に発砲した以上、命がないかもしれない。そうした考えが、ひしひしと彼の胸に迫ってくる。愛妻のおもとと水杯を交わすとき、格之介は、不覚にも涙を流した。
三
光明寺に、十三人が閉じこめられてから数日経った。本堂に続いた二十畳に近い書院が、彼らの居室に当てられた。住持の好意によって、手回りの品物が給せられた。警護の鳥取藩士は、彼らにかなり寛大だった。が、生死の間に彷徨している彼らは、みんな怏々《おうおう》として楽しまなかった。
人間は、何かの感情に激すると、臆病者でもかなり潔く死ぬことがある。忠君とか愛国とか憤怒とか慷慨とか、そうした感激で、人は潔く死ねる。が、そうした感激がなく、死が素面《すめん》で人間に迫ってくる場合には、大抵の人間が臆病になってしまう。十三人の場合が、そうであった。彼らは、蛤門の戦や鳥羽伏見の戦には、かなり勇敢に戦った人たちである。が、戦場から本隊と別れて故郷へ帰って来て以来、忠節とか意地とかいった感激的な心持が、心のうちに緩んでいる。そこへ、死は不意に彼らの顔をのぞき込んできたのである。宇多熊太郎、築麻市左衛門など、剛胆をもってきこえた武士までが、ここへ来て以来、かなり沈んでいる。まして、最初からあまり勇敢でない新谷格之介が、心のうちで脅えきっていたのは当然である。
最初、彼らは自分たちの境遇については、何も話さなかった。みんな注意して、それに触れるのを避けた。それに触れることが、誰にとっても不快であったからである。
「万之助様のお身の上は、どうなったであろう」
彼らの一人がいった。
「本城の明渡しは、もう無事に済んだかしらん」
他の一人がいった。
「紀州へ落ちた人たちは、あれからどうしたであろう。まさか、紀州家が見殺しにはしないだろう」
第三の人がいった。
彼らは、努めて自分たち以外の人々の身の上を心配しているように、お互いに見せかけた。が、そんなふうに話をし始めても、少しもはずまなかった。銘々自分自身、心のうちに自分たちの身の上を思う心が、暗澹としていたからである。
一日経ち二日経ち、彼らの生死の不安がますます濃くなってくるにつれ、彼らはもう他人のことなどは、話している余裕がなくなっていた。
二十七日の午後である。十三人の中では、いちばん軽輩の近藤小助という男が、とうとう口を切った。それは、皆が口に出したくて、しかも妙な外見から、口に出せなかった言葉である。
「時に、われわれは一体どうなるというのだろう。もう四日にもなるのに、なんの御沙汰もない」
彼は、小声で同僚にそう話しかけた。が、異常に緊張している十二人の耳は、小助の囁きをきき落さなかった。みんなは、一斉に小助の方を見た。
「さあ! それじゃて」いちばん年輩の足軽小頭が、小助の問を受けて答えた。「もう、なんとか御沙汰があるはずじゃが、もしかすると、京都へいったん伺いを立てたのかな。もしそれだと往復四日かかるとして、御沙汰があるのは、今日か明日じゃて。もう、どんなに遅くても二、三日じゃ」
「首が飛ぶのがかい」
小助は、蒼白い顔に苦笑をもらしながら、そういった。みんなは、じろりと小助の方を見た。その目には、不吉な不快な言葉を無遠慮に使う小助に対する非難が、一様に動いていた。
「いや、そうとは限るものか。朝廷の御主旨は万事御仁慈を旨とせられるというから、取るに足らぬ我々の命を召さるるはずはない、取越苦労はせぬものじゃ!」
足軽小頭は、小助を窘《たしな》めるようにいった。
「いや、お言葉じゃが、鎮撫使の参謀には、長州人がいる
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