市左衛門が帰って来たその夜、城中の大広間で、一藩の態度を決するための大評定が開かれた。
血気の若武者は、桑名城を死守して、官軍と血戦することを主張した。が、それが無謀な、不可能な、ただ快を一時に遣《や》る方法であることは、誰にもわかっていた。隣藩の亀山も、津の藤堂も勤王である。官軍を前にしては、背後にしなければならぬ尾州藩は、藩主同士こそ兄弟であるが、前年来朝廷に忠誠を表している。なんらの後立《うしろだて》もなく、留守居の小勢で血戦したところで、一揉みに揉み潰されるのは、決っている。
死守説は少数で、すぐ敗れた。その後で、議論は東下論と恭順論との二つに分かれた。東下論は硬論であり、恭順論は軟論であった。
家老の酒井孫八郎や、軍事奉行、杉山|弘枝《ひろえ》は、東下論を主張した。彼らの主張はこうであった。城を守って一戦することは華々しいことであるが、この小勢では一日も支えがたい。が、それかといって、藩主|定敬《さだたか》公がまだ恭順を表されない前に、城を出でて官軍に降るということは、相伝の主君に対して不忠である。従って、我々の採る道は、今の場合一つしかない。それは、城をいったん敵に渡して、関東に下り、藩主越中守の指揮に従い、幕軍と協力して、敵に当るより外はないというのだった。
それに対して、政治奉行の小森九右衛門、山本主馬などが恭順論を主張した。彼らは天下の大勢を説き、順逆の名分を力説して、この際一日も早く朝威に帰順するのが得策であるというのであった。
恭順東下の議論は、二日にわたって決しなかった。そのうちに、鎮撫使の橋本少将、柳原侍従が、有栖川宮の先発として、京師を発したという知らせが早くも伝わった。
その知らせに接して、評定の人々は更に焦った。が、諸士の議論は、容易に一致しなかった。藩中第一の器量人といわれている家老の酒井孫八郎が、とうとうこんなことををいい出した。今、敵は眼前に迫っている。必死危急の場合である。小田原評定をやって、一刻をも緩《ゆる》うすべき時ではない。昨日今日の様子では、この上いくら評定を重ねても、皆が心から折れ合うことなどは望み得ない。その上恭順がよいか東下がよいか、そのいずれが本当に正しいかは、人間の力では分かるものではない。それよりも、いっそ東下と恭順との二つの籤《くじ》を作って、藩主定綱公以下を祭った神廟の前で引いてみよう、その
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