血縁の力などが、天分の欠陥もある程度まで補ってくれる。が、芸術に志す者にとって、天分の誤算は致命的の失策だ。ここでは、天分の欠陥を補う、なんらの資料も存在していないのだ。黄金だと思っていた自分の素質が日を経るに従って、銅や鉛であったことに気がつくと、もうおしまいだ。天分の誤算は、やがて一生の違算となって、一度しか暮されない人生を、まざまざと棒に振ってしまうのだ。昔から今まで、天分の誤算のために、身を誤った無名の芸術家が幾人いたことだろう。一人のシェークスピアが栄えた背後に、幾人の群小戯曲家が、無価値な、滅ぶるにきまっている戯曲を、書き続けたことだろう。一人のゲーテが、ドイツ全土の賞賛に浸っている脚下に、幾人の無名詩人が、平凡な詩作に耽《ふけ》ったことだろう。無名に終った芸術家は、作曲家にもあっただろう。俳優にも無数にあっただろう。一人の天才が選ばれるためには、多くの無名の芸術家が、その足下に埋草となっているのだ。無名の芸術家でも、その芸術的向上心において、芸術的良心において、決して天才の士に劣っているわけはないのだ。彼らの欠点はただひとつである。それは彼らの天分が、どんなに磨きを掛けても輝かない鉛か銅であることだ。
 こう考えてくると、俺は堪らなく自分が嫌になる。俺は、どうして創作家になることを志したのだろうか。どうして文学を志したのだろう。それを考えると、俺はいつも、自分のばからしさに愛想が尽きる。俺が文科を選んだのは、文学者崇拝という他愛もない少年時代の感情に支配されていたに過ぎなかった。もう一つ原因はあったっけ。それは、俺は中学時代に作文が得意であったという、愚にもつかない原因だった。こんな、少年時代の出来心で選んだ生涯の道程を、今となっては是が非でも、遂行しなければならぬ羽目にいる俺を、つくづく情なく思う。
 それにしても、高等学校にいた頃は、少しは自信があった。自信があったというよりも、自分の真実の天分なり境遇なりを、自分でごまかしていくことができたのだ。ことに、山野や桑田などの、燃ゆるような文壇的野心や、自惚《うぬぼれ》に近い自信が、俺にもいくらか移入されていたせいかも知れない。高等学校にいた頃、寝室で皆が一緒に枕を並べて寝る時は、文壇についての話のほかは、ほとんどなにもしなかった。ことに、川崎純一郎氏の活躍ぶりが、よく我々の話題となっていた。川崎氏は、
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