令して矢を放つが届かない。忽ちにして全軍敗走した。李鎰自身、馬を棄て、衣服を脱ぎ、髪を乱し、裸体で走り、開慶に至って筆紙を求め、使をして敗戦を報じた。朝鮮側の記録に書いてあるのだから嘘ではなかろう。これが四月の二十四日の事であるが、二十七日には忠州に於て申※[#「石+立」、第4水準2−82−36]が敗れた。申※[#「石+立」、第4水準2−82−36]は最初の大言に似ず、日本軍連勝の報に恐れをなして、忠州を出動して南下し、鳥嶺の嶮を踰《こ》える時に行方不明になった。大将が居なくては陣中|騒擾《そうじょう》するのは当然である。処が斥候の報ずる如くに翌日になっても日本軍が現れないので、安心して何処《どこ》からか出て来た。そして先の斥候は偽りを報じたとして之を斬った。虫のいい話である。間もなく現れた日本勢と闘ったが忽ちにして敗れ、申※[#「石+立」、第4水準2−82−36]は南漢江に投じて溺死して果てた。この戦場は弾琴台と云って、稲田多く、馬を馳《はし》らせるのに不便な処であった。この戦場より南一里の処に姑母山《こぼざん》と称する古城がある。山峡重なって中に川が流れ、一夫守って万夫を防ぐに足る要害である。日本軍は必ずや此処に朝鮮軍が拠《よ》って居るだろうと斥候を放ったのに、只一人も守って居ないのに驚いた程である。呆《あき》れながら越えて見ると、稲田の中に陣を布《し》いて居た。後に明将|李如松《りじょしょう》が日本軍を追撃して此処を過ぎた時、申※[#「石+立」、第4水準2−82−36]の無策を嘆じたと云う。折角頼みに思った二将が手もなく敗れた報が京城に達したから、上を下への大混乱である。朝廷諸臣を集めて評議を行ったが、或者が建議するに、敵軍の恃《たの》む処は利剣長槍である。厚い鉄を以って満身の甲《かぶと》を造り、勇士を募って之に被《かぶ》らせ、敵中に突入させれば、敵は刺す隙を見出せずして勝を得る事必せりと云う。試みに造ってみたが重くて、誰も動く事が出来なかった。更に一人は漢江の辺に多くの高い棚を築き、上から伏射すれば敵は上る事が出来ないであろうと進言した。少し気のきいたのが、然らば鉄砲の丸《たま》も上る事は出来ないのであるかと、反問したのでそのままになった。結局王子|臨海《りんかい》君をして咸鏡《かんきょう》道に、順和君を江原道に遣して勤王の軍を募らしめ、王李昭、世子|光海《こうかい》君以下王妃|宮嬪《きゅうひん》数十人、李山海、柳成竜等百余人に護《まも》られて、遠く蒙塵《もうじん》する事になった。四月二十九日の午前二時、士民の哀号の声の中を西大門を出たのである。
行長、清正の二軍は、忠州に相会した後再び路を分って進み、五月二日の夕方に清正は南大門から、行長は東大門から京城に入城した。京城附近の漢江に清正行き着いた時、河幅三四町に及ぶが、橋が無いので渡れない。対岸を望むと船が多く繋《つな》いであるが、敵の伏勢が居ないとも限らない。清正|暫《しばら》く眺めて居たが、『鴎《かもめ》が浮んで居る処を見ると敵軍既に逃げたと覚える、誰か泳いで彼の船を漕ぎ来《きた》る者ぞ』と云った。従士曾根孫六進んで水に入り、一隻を漕ぎ還ったので、次々に船を拉《らっ》し来って全軍を渡す事が出来た。清正は更に開城を経た後大陸を横断して西海岸に出で、海汀倉《かいていそう》に大勝し長駆|豆満江《とまんこう》辺の会寧に至った。此処で先の臨海君順和君の二王子を虜《とりこ》にした。まだそれで満足しなかったと見えて兀良哈《おらんかい》征伐をやって居る。兀良哈は今の間島地方に住んで居る種族で、朝鮮人その勇猛を恐れて、野人或は北胡と称して居たものである。清正はかくして朝鮮国境まで突破したわけだが、北進中の海岸で、ある日東海はるかに富士山を認め、馬より降り甲を脱いで拝したと云うが、まさか富士山ではあるまい。この情景は昔の絵草紙などに書いてある。しかし懸軍数百里望郷の情は、武将の心を傷《いた》ましむるものがあったであろう。清正の話では虎狩りが有名であるが、十文字槍の片穂を喰い取られたなぞは伝説である。清正ばかりでなく島津義弘や黒田長政なども虎狩りをやって居る。中には槍や刀でついに仕止めた話もあるが、清正が十文字槍で虎と一騎討ちをやった記録はない。自ら鉄砲で射止めた事はあるらしい。
さて一方行長も七月半に大同江を渡って平壌を占領した。かくて、この年の暮頃の京城を中心とした日本軍の配置はほぼ次の如くである。既ち京城には、総大将宇喜多秀家を始め三奉行の増田長盛、石田三成、大谷吉継以下約二万の勢、平壌には、先鋒小西行長、宗義智、松浦鎮信以下一万八千の勢、牛峰《ぐうぼう》には、立花宗茂、高橋|統増《のぶます》、筑紫|広門《ひろかど》等四千の勢。開城には、小早川|隆景《たかかげ》、吉川《きっか
前へ
次へ
全8ページ中2ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
菊池 寛 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング