てええか。子供もこんなに大きゅうなってな、何より結構やと思うとんや。
父 親はなくとも子は育つというが、よういうてあるな、ははははは。
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(しかし誰もその笑いに合せようとするものはない。賢一郎は卓に倚《よ》ったまま、下を向いて黙している)
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母 お前さん、賢も新もようでけた子でな。賢はな、二十の年に普通文官いうものが受かるし、新は中学校へ行っとった時に三番と降ったことがないんや。今では二人で六十円も取ってくれるし、おたねはおたねで、こんな器量よしやけに、ええ所から口がかかるしな。
父 そら何より結構なことや。わしも、四、五年前までは、人の二、三十人も連れて、ずうと巡業して回っとったんやけどもな。呉で見世物小屋が丸焼になったために、えらい損害を受けてな。それからは何をしても思わしくないわ。その内に老先《おいさき》が短くなってくる、女房子のいる所が恋しゅうなってうかうかと帰って来たんや。老先の長いこともない者やけに皆よう頼むぜ。(賢一郎を注視して)さあ賢一郎! その杯を一つさしてくれんか、お父さんも近頃はええ酒も飲めんでのう。うん、お前だけは顔に見おぼえがあるわ。(賢一郎応ぜず)
母 さあ、賢や、お父さんが、ああおっしゃるんやけに。さあ、久し振りに親子が会うんじゃけに祝うてな。
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(賢一郎応ぜず)
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父 じゃ、新二郎、お前一つ、杯をくれえ。
新二郎 はあ。(杯を取り上げて父にささんとす)
賢一郎 (決然として)止めとけ。さすわけはない。
母 何をいうんや、賢は。
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(父親、激しい目にて賢一郎を睨んでいる。新二郎もおたねも下を向いて黙っている)
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賢一郎 (昂然と)僕たちに父親《てておや》があるわけはない。そんなものがあるもんか。
父 (激しき憤怒を抑えながら)なんやと!
賢一郎 (やや冷やかに)俺たちに父親《てておや》があれば、八歳《やっつ》の年に築港からおたあさんに手を引かれて身投げをせいでも済んどる。あの時おたあさんが誤って水の浅い所へ飛び込んだればこそ、助かっているんや。俺たちに父親《てておや》があれば、十の年から給仕をせいでも済んどる。俺たちは父親《てておや》がないために、子供の時になんの楽しみもなしに暮してきたんや。新二郎、お前は小学校の時に墨や紙を買えないで泣いていたのを忘れたのか。教科書さえ満足に買えないで、写本を持って行って友達にからかわれて泣いたのを忘れたのか。俺たちに父親《てておや》があるもんか、あればあんな苦労はしとりゃせん。
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(おたか、おたね泣いている。新二郎涙ぐんでいる。老いたる父も怒りから悲しみに移りかけている)
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新二郎 しかし、兄さん、おたあさんが、第一ああ折れ合っているんやけに、たいていのことは我慢してくれたらどうです。
賢一郎 (なお冷静に)おたあさんは女子やけにどう思っとるか知らんが、俺に父親《てておや》があるとしたら、それは俺の敵《かたき》じゃ。俺たちが小さい時に、ひもじいことや辛いことがあって、おたあさんに不平をいうと、おたあさんは口癖のように「皆お父さんの故《せい》じゃ、恨むのならお父さんを恨め」というていた。俺にお父さんがあるとしたら、それは俺を子供の時から苦しめ抜いた敵じゃ。俺は十の時から県庁の給仕をするし、おたあさんはマッチを張るし、いつかもおたあさんのマッチの仕事が一月ばかり無かった時に、親子四人で昼飯を抜いたのを忘れたのか。俺が一生懸命に勉強したのは皆その敵《かたき》を取りたいからじゃ。俺たちを捨てて行った男を見返してやりたいからだ。父親《てておや》に捨てられても一人前の人間にはなれるということを知らしてやりたいからじゃ。俺は父親《てておや》から少しだって愛された覚えはない。俺の父親《てておや》は俺が八歳《やっつ》になるまで家を外に飲み歩いていたのだ。その揚げ句に不義理な借金をこさえ情婦を連れて出奔《しゅっぽん》したのじゃ。女房と子供三人の愛を合わしても、その女に叶わなかったのじゃ。いや、俺の父親《てておや》がいなくなった後には、おたあさんが俺のために預けておいてくれた十六円の貯金の通帳《かよいちょう》まで無くなっておったもんじゃ。
新二郎 (涙を呑みながら)しかし兄さん、お父さんはあの通り、あの通りお年を召しておられるんじゃけに……。
賢一郎 新二郎! お前はよくお父さんなどと空々しいことがいえるな。見も知らない他人がひょっくり入ってきて、俺たちの親じゃというたからとて、すぐに父に対する感情を持つことができるんか。
新二郎 しかし兄さん、肉親の子として、親がどうあろうとも養うて行く……。
賢一郎 義務があるというのか。自分でさんざん面白いことをしておいて、年が寄って動けなくなったというて帰ってくる。俺はお前がなんといっても父親《てておや》はない。
父 (憤然として物をいう、しかしそれは飾った怒りでなんの力も伴っていない)賢一郎! お前は生みの親に対してよくそんな口が利けるのう。
賢一郎 生みの親というのですか。あなたが生んだという賢一郎は二十年も前に築港で死んでいる。あなたは二十年前に父としての権利を自分で捨てている。今のわしは自分で築きあげたわしじゃ。わしは誰にだって、世話になっておらん。
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(すべて無言、おたかとおたねのすすりなきの声がきこえるばかり)
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父 ええわ、出て行く。俺だって二万や三万の金は取り扱うてきた男じゃ。どなに落ちぶれたかというて、食うくらいなことはできるわ。えろう邪魔したな。(悄然と行かんとす)
新二郎 まあ、お待ちまあせ。兄さんが厭だというのなら僕がどうにかしてあげます。兄さんだって親子ですから、今に機嫌の直ることがあるでしょう。お待ちまあせ。僕がどななことをしても養うて上げますから。
賢一郎 新二郎! お前はその人になんぞ世話になったことがあるのか。俺はまだその人から拳骨の一つや二つは貰ったことがあるが、お前は塵一つだって貰ってはいないぞ。お前の小学校の月謝は誰が出したのだ。お前は誰の養育を受けたのじゃ。お前の学校の月謝は、兄さんがしがない給仕の月給から払ってやったのを忘れたのか。お前や、たねのほんとうの父親《てておや》は俺だ。父親《てておや》の役目をしたのは俺じゃ。その人を世話したければするがええ。その代り兄さんはお前と口は利かないぞ。
新二郎 しかし……。
賢一郎 不服があれば、その人と一緒に出て行くがええ。
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(女二人とも泣きつづけている。新二郎黙す)
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賢一郎 俺は父親《てておや》がないために苦しんだけに、弟や妹にその苦しみをさせまいと思うて夜も寝ないで艱難したけに、弟も妹も中等学校は卒業させてある。
父 (弱く)もう何もいうな。わしが帰って邪魔なんだろう。わしやって無理に子供の厄介にならんでもええ。自分で養うて行くぐらいの才覚はある。さあもう行こう。おたか! 丈夫で暮せよ。お前はわしに捨てられてかえって仕合せやな。
新二郎 (去らんとする父を追いて)あなたお金はあるのですか。晩の御飯もまだ食べとらんのじゃありませんか。
父 (哀願するがごとく瞳を光らせながら)ええわええわ。
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(玄関に降りんとしてつまずいて、縁台の上に腰をつく)
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おたか あっ、あぶない。
新二郎 (父を抱き起しながら)これから行く所があるのですか。
父 (まったく悄沈として腰をかけたまま)のたれ死するには家《うち》は要らんからのう……(独言のごとく)俺やってこの家《うち》に足踏ができる義理ではないんやけど、年が寄って弱ってくると、故郷の方へ自然と足が向いてな。この街へ帰ってから、今日で三日じゃがな。夜になると毎晩|家《うち》の前で立っていたんじゃが、敷居が高うて入れなかったのじゃ……しかしやっぱり入らん方がよかった。一文なしで帰って来ては誰にやってばかにされる……俺も五十の声がかかると国が恋しくなって、せめて千と二千とまとまった金を持って帰ってお前たちに詫をしようと思ったが、年が寄るとそれだけの働きもできんでな……(ようやく立ち上って)まあええ、自分の身体ぐらい始末のつかんことはないわ。(蹌踉《そうろう》として立ち上り、顧みて老いたる妻を一目見たる後、戸をあけて去る。後四人しばらく無言)
母 (哀訴するがごとく)賢一郎!
おたね 兄さん!
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(しばらくのあいだ緊張した時が過ぎる)
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賢一郎 新! 行ってお父さんを呼び返してこい。
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(新二郎、飛ぶがごとく戸外へ出る。三人緊張のうちに待っている。新二郎やや蒼白な顔をして帰って来る)
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新二郎 南の道を探したが見えん、北の方を探すから兄さんも来て下さい。
賢一郎 (驚駭《きょうがい》して)なに見えん! 見えんことがあるものか。
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(兄弟二人狂気のごとく出で去る)
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[#地から2字上げ]――幕――
底本:「菊池寛 短篇と戯曲」文芸春秋
1988(昭和63)年3月25日第1刷発行
入力:真先芳秋
校正:野口英司
1999年1月1日公開
2005年10月17日修正
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