しゃ》った事は、皆本心かいな」
女の声は、消え入るようであった。その唇が微《かす》かに痙攣《けいれん》した。
「何の、てんごう[#「てんごう」に傍点]を云うてなるものか、人妻に云い寄るからは、命を投げ出しての恋じゃ」と、いうかと思うと、藤十郎の顔も、さっと蒼白《そうはく》に変じてしまった。浮腰になっている彼の膝《ひざ》が、かすかに顫《ふる》いを帯び始めた。
必死の覚悟を定めたらしいお梶は、火のような瞳で、男の顔を一目見ると、いきなり傍の絹行燈の灯を、フッと吹き消してしまった。
恐ろしい沈黙が、其処《そこ》にあった。
お梶は、身体中の毛髪が悉《ことごと》く逆立《さかだ》つような恐ろしさと、身体中の血潮が悉く湧《わ》き立つような情熱とで、男の近寄るのを待っていた。が、男の苦しそうな息遣《いきづか》いが、聞えるばかりで、相手は身動きもしないようであった。お梶も居竦んだまま、身体をわなわなと顫わせているばかりであった。
突如、藤十郎の立ち上る気勢《けはい》がした。お梶は、今こそと覚悟を定めていた。が、男はお梶の傍を、影のようにすりぬけると、灯のない闇《やみ》を、手探りに廊下へ出たかと
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