は容易にこれらの流言を信ずるに至った。そこで松右衛門は好次と謀《はか》って、四郎をもって天帝|降《くだ》す処の天章と為し、大矢野島宮津に道場を開き法を説いた。来り会する老若男女は、威風|傍《かたわら》を払い、諄々《じゅんじゅん》として説法する美少年の風姿に、まずその眼を瞠《みは》ったに相違ない。その上彼等が尊敬し来った長老達が、四郎を礼拝する有様を見ては、驚異の念は次第に絶大の尊崇に変った。更に四郎が不思議の神通力を現すと云う噂は、門徒の信心を強め、新たに宗門に投ずる者を次第に増さしめた。四郎天を仰いで念ずると鳩が飛んで来て四郎の掌上に卵を産み、卵の中から天主の画像と聖書を出したとか、一人の狂女が来ったのに四郎|肯《うなず》くと忽ちに正気に還ったとか、またある時には、道場に来て四郎を罵《ののし》る者があったが、其場に唖《おし》となり躄《いざり》となった、などと云う。こうして宗教的熱情は高まり物情次第に騒然となって来た。
「領主板倉氏の宗徒への圧迫と課役の苛酷さとは、平時も堪えがたし。今年の凶作をもって、如何にして之に堪えてゆかれよう。今は非常手段に訴えるより途はなかろう」この様な論議が各村庄屋の寄合の席で持ち出される。大矢野島と島原との間に湯島と云う小島があるが、宗徒等は此処に秘密のアジトを置き、天草島原の両地方の人々が来り会して、策謀を凝《こら》した。後世談合島と称される所以《ゆえん》である。
島原の南有馬村庄屋治右衛門の弟に角蔵なる者があり、北有馬村の百姓三吉と共に、熱烈な信者であった。彼等の父は嘗つて藩の宗門改めに会って斬られた者達であるが、角蔵、三吉は各々の父の髑髏《どくろ》と天主像を秘かに拝して居たのを、此頃に至って公然と衆人に示して、勧説《かんぜい》するに至った。立ち所に帰する者七百人に及んだが、領内の不穏を察して居た有馬藩では、之が逮捕に、松田兵右衛門以下二十五人をして、船に乗じて赴かしめた。両名の妻子共々に捕えた時に、三吉は角蔵に向って「自分が身を以って教に殉ずるのは、固《もと》から願う処だ。しかし五歳の男児と三歳の女児の未だ教の何たるかを知らない者まで連座するのを見ると涙がこぼれる」と云うと、角蔵は、「何と云う事を云われる。我等両人世々教に殉ずる事になったわけで、生前の栄《はえ》、死後の寵何の之に加えるものがあろう」と答え笑って縛に就いた。たまたま三吉の家で礼拝して居た男女が七十余人あったが、角蔵、三吉両家の者を始め、主謀者と認《みな》された者等|総《すべ》て十六人が、藩船に乗せられて折柄暮れようとする海へ去るのを見送って、「自分等も早晩刑を受ける事であろう。今はただ相共に天国に見《まみ》えん事を待つのみである」と呼ばわりながら、見送った。これは十月二十二日の事であるが、その翌二十三日、有江村の郷士佐志木作右衛門の邸《やしき》に信徒が集って居るのを耳にした代官林兵右衛門は単身乗り込んで、天主の画像を奪い破り、竈《かまど》に投じた。忍従の信徒達もこれを見ては起たざるを得なかったのであろう。座に在った四十五人は等しく耒耜《らいし》を採って、兵右衛門を打ち殺して仕舞った。ここに於て佐志木作右衛門は、千束島の山善左衛門等と図《はか》ったが、結局|坐《い》ながら藩兵に攻められるより兵を挙ぐるに如《し》かずとなった。
「天主の教を奉じての事故《ことゆえ》日本全土を敵とするも懼《おそ》るるに当らない。況《いわ》んや九州の辺土をや。事成らばよし、成らずば一族天に昇るまでの事だ」聞く者皆唯々として従ったので、挙兵の檄文《げきぶん》は忽ちに加津佐、串山、小浜、千々岩《ちぢわ》を始め、北は有江、堂崎、布津、深江、中木場の諸村に飛んだ。加津佐村の代官山内小右衛門、安井三郎右衛門両名は、信徒三十数名に襲われ、鳥銃の為に斃《たお》された。千々岩、小浜、串山三村の代官高橋武右衛門は、夜半放火されて驚いて出る処を討たれた。其他諸々在々の諸役人も同じく襲撃されたのである。
時に島原の領主松倉重次は、江戸出府中の事であるから、留守の島原城は大騒ぎである。老臣岡本新兵衛は、士卒をして船で沿岸を偵察せしめるが、ほとんど、津々浦々が一揆である。うかつに上陸した者は、悉《ことごと》く襲われる始末である。殊に一揆は代官所を襲って得た処の鳥銃槍刀の武器を多く手に収めて居る。其上に元来が島原の人民は鳥銃製造の妙を得て居て、操作の名手も、少なくない。三会《みえ》村の百姓金作は針を遠くに懸けて置いて、百発百中と云う程で、人呼んで懸針金作と称した位である。
銃の名手丈でなく大斧《おおおの》を揮う老農があるかと思えば、剣法覚えの浪士が居る。こうした油断のならない一揆の群が何処にひそんで居るかわからないのだから、軍陣に慣れて居る藩士達も徒らに奔命に疲れるばかりで
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