のぼのと煙っていた。
 白樺の小径には、短い夏の夜を鳴き足りない虫の、かぼそい声がきかれた。
 ふと小径の曲り角で、新子は足音と影とを見て立ち止まった。
 それは、準之助氏であった。
 早くも今朝カミソリの刃を当てたらしいすがすがしい顎、麻の単衣《ひとえ》に、竹のステッキを持っていたが、新子を見ると、
「ああ、お早う。」と、呼びかけて、
「貴女は、お若いのに早起きですな。今朝だけですか、それとも習慣ですか。」
「今朝は、特別でございますけれども、家におりましても、朝は早い方でございます。」
「そうですか。じゃ、昨夜《ゆうべ》、申し上げた日課を改めましょうか。子供達も、休み中なるべく早起きの習慣をつけたいと思っていますから……」準之助氏は、新子をうながすように、小径を先に立って歩きながら、
「じゃ、朝食前に、小太郎に読み方と算術を教えて下さい。そして、十時に女の子の勉強を見て頂いて、午後二時にまた小太郎に、ほかの学課の復習をしてやって下さい。」
「かしこまりました。」と、新子は頭を下げた。
「今日から始めて頂きましょうか。」準之助氏は、昨夜《ゆうべ》と今朝と、新子と話をするごとに、よりふかく新子に満足してくれるらしかった。
「食事は、みんなと一しょに食堂で召し上って下さい。それから、夜は一切貴女のご勝手にして下さい。こっちの書庫にも割合本がありますから、読みたいものがありましたらご遠慮なく。」
 二人はいつか、裏庭の芝生に出ていた。大きな柏の下に、山羊が、二匹つないであった。
 家からは、人声が洩れ、かん高い幼い声も交った。
「お子さま達も、お眼ざめのようですわ。」
「そうですな、後で、貴女の授業ぶりを拝見したいですな。」
「お恥かしいけれども、どうぞ。」
 準之助氏は、新子に庭内の樹や草花の名前を教えながら庭内を一廻りした。
 ――七時から初めての授業。小太郎は物解りのいい子であった。そして、先生が新しくって珍しいせいか、熱心に応《こた》えたりきいたりして、無事に授業がすんだ。
 準之助氏は、遠くはなれたソファに腰をおろしながら、始終ニコニコしながら、満足そうに新子の教えぶりを見ていた。

        五

 二時から、小太郎に地理や歴史などの復習をしてやると、あとはかの女の時間であった。
 主人や子供達と一しょに、お茶を頂くのも新子には楽しかった。
 二、三日のうちに新子は、すっかりこの生活に落着いてはれやかになった。ただ、夫人が東京から来る時が近づいて来るのが、不安だった。
 三日目の晩、美沢に手紙を書いた。

[#ここから1字下げ]
どうか安心して下さいませ。
こちらの生活は、とても楽しゅうございます。健康で、ご飯までがおいしく頂けます。
それに、このお手紙を書いている私の部屋のよい匂い、高原の草の香りが、しみ込んでいて、どんなよい床まき香水もこの匂いには敵わないでしょう。
前川氏は、万事外国好みですの。だから、私なども、一個の貴婦人《レディ》として、とても大事にして下さいますの。
洋書も和書も、沢山ございますわ。別荘に、これだけの書庫を持っている実業家なんて、ほかには滅多にないと思いますわ。
旦那さまと、お子さまだけをこちらへよこして、奥さまは、まだ東京にいらっしゃいますの。奥さまのご交際の都合だとのことですの。
私は、ほんとうに気が晴れやかですわ。
東京で姉や妹の生活を見て、ジリジリしているより、どんなにいいか分りませんわ。
お子さまに、一日三時間お相手をすれば、後は私の時間ですの。私の時間には、絶えず貴君《あなた》のことを思いだしております。
[#ここで字下げ終わり]

 来てから四日目、お茶の時間に、小さい兄妹は、お昼寝をしていたため、新子と準之助氏とだけで、お茶をのんだ。お茶が済んでも、準之助氏が何だか所在なさそうなので、新子は何となく立ち去りかねていた。
「貴女は、ダイヤモンド・ゲームをおやりになりますか。」
「はあ。」
「じゃ、一つお相手しましょう。」
「どうぞ!」
 準之助氏は、笑いながら、向うの玩具《おもちゃ》棚から、ダイヤモンド・ゲームを持って来た。
 二人は、かなり身近く相対した。二人は、お互に子供らしく緊張しながら、駒をうごかしはじめた。新子は、英学塾の寄宿舎などで、お友達の誰とやっても、なかなか負けなかった。この遊び方のコツといったものを呑み込んでいた。
 準之助氏は、手もなく負かされた。
 二度目に駒を並べるとき、新子はいった。
「お母さまが、いらっしゃらなくっても、お子さまは、たいへん、大人《おとな》でいらっしゃいますね。」
「普段から馴れていますから、私の家では、(ママ! パパがお帰り)なんていうことはめったにありませんよ。大抵、(パパ! ママがお帰り)というんですからな。」と、上品に
前へ 次へ
全108ページ中14ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
菊池 寛 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング