も口にしなかったのだろうか。新子は、さすがに少しジリジリして、
「美沢さん、別に私のこと何か貴女に訊かなかった?」と、背を向けたまま訊《たず》ねた。
思いがけない姉の積極的な問いに、美和子は、ドキッとした。
(私を送ってお姉さんに会いに来るはずだったのを、私が銀座へ連れ出したの)などと答えては、たいへんだと思ったので、
「ううん。何も。」美和子の声は、低く小さく、さりげない夜風のよう。それを聞いた新子は、急に淋《さび》しく胸がふさがった。
一家の生活問題に及ばずながら立ち向おうと、立ち上ると、その隙間に側《そば》に寝ている肉親の妹が、早くもわが愛人をかき乱そうとするのか。新子は、全身をながれる悲しみを感じて、瞼《まぶた》の裏があたたかくぬれてきた。
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新子の仕事
一
久しぶりの青空である。
午後からは、カッと暑くなりそうな、日曜日である。十六、七日の藪入《やぶい》りを雨に取られたので、そのつぐないをしようとする小店員。リュクサックを肩に、一晩泊りのハイキングに出るオフィス・ガールや青年達。街も活気に充ちていたが、上野駅は一時に夏が押しかけて来たよう――嬉しげな靴の音や、はしゃいだ下駄の音、午前十時何分かの登山列車は、ほとんど空席のないほど、混雑していた。
新子は、採用が定《きま》って、前川家の人達よりも、一日遅れて、軽井沢へ来るよう命ぜられた。
「羨ましいわ。これから東京は暑くなるのに、新子姉さまだけが別天地にいられるわけね。いいわねえ。」と、美和子がいうと、圭子までが、
「私も新子ちゃんみたいに、夏休み中だけでも、家庭教師をやればよかった。」と、新子が何か面白ずくで家庭教師になって、涼しい旅行が出来、うまくやっているというような顔をしていた。
「身体を気をつけてね。奥さまや、お子様達の気に入るように……」
車の外に止《とど》まっている母は、初めて家庭から離れる娘の上を、ただわけもなく不安がっていた。
「お姉さん、私一ペンだけは、遊びに行ってもいいでしょう。」姉の荷物を網棚に置きながら、美和子がいうと、
「ダメよ。」と、にべもない返事に、美和子はしょげた。
車の外の母が、
「軽井沢は寒いだろうから風邪を引かないように……」と、窓から首をさし入れて、念を押した。
圭子も美和子も、次々に乗って来る人達に押し出されるように、プラットフォームに降りてしまった。
ベルが鳴った。
「さよなら。」
「気をつけてね。」
車が動くと、見送人は吹き寄せられたように取り残される。はしゃいでいる美和子は、汽車と一しょに走って、フォームのはずれまで来て手を振った。
新子は、とうとう美沢とは会わなかった。美沢は、前夜の手紙に対し返事を速達でよこし、急に会いたいといって来たが、それと同時に軽井沢行きが定って今日の出発となった。
会いたくもあったが、しかし会わないで行く方が、余情が多いようにも思った。
どうせ、簡単に結婚できないとすれば、ある間隔を保っていた方が、お互のためにいいのではないかと思った。
それに、美和子などが、あんな調子で甘えかかっていても、そうやすやすとは心をうごかす美沢でないことを、新子は信じたいと思った。
だから、美沢のことは、比較的安心が出来た。心配なのは、やはり準之助夫人である。昨日《きのう》夫人からもらった採用通知の電話の最初の言葉なども、嫌だった。
(主人ともいろいろ相談致しましたが、こちらはどちらでもよろしいんですけれども、貴女《あなた》が非常にご希望のようですから……)という切り出しだった。何事にも高飛車に、上手《うわて》から出ようという態度が、二、三分間の電話の中でも、新子を不快にした。
二
生活への最初の出発、昔からいう初奉公の不安、それに難物の夫人、東京を離れた刹那《せつな》から、新子はやはりかるい物思いに沈んだ。
(あの夫人と衝突して、半月や一月でよすくらいなら、いっそ最初から行かない方が……)と、考えたりした。しかし、夫人が昨日の電話での物のいいぶりや態度でこちらを不愉快にさせながら、
(お礼は、五十円くらいは、さしあげられると思いますの)と云ったことは、彼女をよろこばした。一時は、夫人に対する不快を忘れさえした。
その上、新子は子供に好かれる性質《たち》であったし、彼女自身子供に愛着を感じ、子供と心から遊べる性質《たち》であった。
だから、前川家で、一夜晩餐を共にしただけで、もうすっかりお仲よしになり、帰りには彼女の肩につかまった小さい兄妹を考えると、彼女は頼もしくも思えたし、ある楽しみをも感じた。
高崎あたりから、うすぐもりの空となり、熊の平では、かしこの峰、ここの谷に、うす白い霧がまい下りて、ひんやりと浮世ば
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