の感情が、動いている気がしてならない。
 自分の態度が徹底していないために、結局新子も、いい加減なところで、フラフラしているという感じであった。
 前川は、歩きながら、つくづく考えた。新子のような性格的にも上品な、一人の処女を獲るためには、自分の家庭や位置や名誉までも、犠牲にする覚悟が必要なのだ。及び腰で、手をさし延べているような、自分の態度のために、かえっていろいろな事件が起って来るのかもしれない。
 そう考えて来ると、ジワジワとねばり靭《づよ》い昂揚が、心の中に盛り上って来た。
「僕は、決心しました。妻が穏便じゃないんですから、僕も平和第一、安全第一の常識を棄てることにします。」彼は、静かにいった。
「え?」と、新子は、びっくりしたように、眼を見開いて、相手の横顔を見た。
「僕は、貴女を失いたくない! 何物に比べても貴女が大事だ!」
「だって……」と、打ち消そうとしたが、新子は顔を赤らめて、うつ向いてしまった。
「迷惑だとおっしゃるんですか。」前川は、勢い旺《さか》んに訊ねた。
「まあ、迷惑だなんて、そんなことをおっしゃるのなら、私このままどこかへ身をかくしてしまいますわ。さっきから、そんな気持で、申し上げているのではありませんのに……ただ、奥さまにだって、わるいし、……お子さま達にだって……」
「そんなことを貴女に考えさせていたのは、僕が卑怯《ひきょう》だからなんだ、今後、どんなことが起って来ても、僕のことで貴女にご迷惑はかけないことにします。僕は、その決心をしました。」
 相手の激しさに、新子はいよいようなだれるばかりであった。

        七

「さあ。もう考えないで下さい。」と、前川は明るく云いながら、我とわが心に、
(どうしたって、この人と離れるものか。どんなことがあっても頑張る、どんな手段でも取る!)と、云いつづけた。
 主客転倒で、今度は新子がだまりこんでしまった。
 前川は、ふと空を見上げた。昨夜が中秋であったという月夜空、雲がぐんぐんと動いていた。
「だって、どうなさるんですの。」やわらかく、新子が訊き返した。
「僕は、貴女が好きだ、絶対に別れない。今までは、僕が卑怯だったので、貴女に心配させた。これから、周囲のいかなる非難も受ける。妻とも戦います。だから、貴女は、僕の身の上について、心配することは、一切抜きにして、僕に対する一番素直な気持にだけなって下さればいいんです。」
 すぐには、返事が出来なかった。
「それそれ、そんなに考えないで下さい。考えれば、どうしたって、余計な思案が入って来ますよ。」
「それでいいのでしょうか。」新子の声が弱々しくかすれた。
「いいどころじゃない。僕達が別れたくないためには、そうしなければならない。理性にだけつけば、僕達は軽井沢で、もう別れて路傍の人になっていますよ。あんな酒場なんか出さないし、今度の事件なんか起らないんですよ。理性と感情と中途半端だから、ゴタゴタするんですよ。僕は、今度は貴女を失いたくないという自分の感情本位で行動しますよ。」
「私だって、感情だけで行動できたら、どんなに幸福だろうかと思いますの……、美和子のように……」
「うむ。」と、前川は深くうなずくと、たちまち自分の目頭がうるむのを覚え、新子が限りなく、いじらしくなり、ギュッと抱きしめて、顔中に唇の雨を降らせたい激しい衝動を感じるのを、息を呑み込んで、ズンズン歩きつづけることで、やっと押えた。
 京橋の十字路も、いつか越していた。
「お腹すかない?」
「何だか分りませんの。胸が一杯でご飯頂けるかしら……」
「随分歩いたから、ともかく落着きましょう。」と、その通りの路次を、少しはいった、大きい日本造りの鳥料理の店を、ステッキの先で示しながら、
「あの家静かですから……」
 新子はその先を見やりもせず、
「でも、そこまで行ってしまうの、なかなか勇気がいりますわねえ。」
「よろしい。今までは、僕がいけなかった。僕も勇気を出す、そして貴女にも勇気を出してもらうようにする。それでやってみて、もし日本が、住みにくかったら、一緒に三、四年外国へ行っていようじゃありませんか。」
 と、前川は獅子の如く勇敢に、料理屋の門をはいって、玄関へつづく砂利の小径を、新子のかぼそい身体を、抱くようにしながら、グングン歩いて行った。



底本:「貞操問答」文春文庫、文藝春秋
   2002(平成12)年10月10日第1刷
底本の親本:「菊池寛全集 第十三巻」高松市立菊池寛記念館刊
   1994(平成6)年11月
入力:kompass
校正:土屋隆
2007年8月10日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正
前へ 次へ
全108ページ中107ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
菊池 寛 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング