キハキしている悪気のなさそうなこの青年に、うちとけてもいい好意を感じた。彼女は、怯《わる》びれず肩にすがらせてもらった。
「でも、よかったですね。蹴られたりなんかすると、たいへんですよ。」
「あんまりあわてたもんですから、もっと落着いていればよかったんですわ。」
「誰でも、あわてますよ。こんな道で、あんなに駈けさせるんですもの……」
夫人の高慢な態度を、新子に代って非難するように、新子を慰めつづけた。
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圭子の仕事
一
新子の姉の圭子が、会員になっている新劇研究会というのは、M大学の文学科の教師をしている小池利男というフランス帰りの劇作家が、顧問兼監督をしていて、会員は大概良家の文化的の子女で、大学や専門学校へ通学している男女学生である。この春から第一回の公演として、アンリ・ルネ・ルノルマンの「落伍者の群」を、やるやると歌に唄いながら、結局学校の休暇を待つよりほかなかった。
それに、劇場も夏場で、借りやすくなったので、S劇場を七月の二十五日から二十九日まで五日間だけ借りて、いよいよ公演の運びになった。
圭子は、みんなから推されて、女主人公《ヒロイン》である「彼女」の役をやることになった。
最初は、切符を会員で分担して売ることになっていたが、いざとなると、思った三分の一も売れず毎日の小屋代、大道具代、衣裳代、弁当代、かつら代などの調達に、初日早々から、四苦八苦の有様だった。
しかも、どの費用も大抵は、その日払いで、ちゃんと払わなければ翌日から、小屋を開けてくれないので、苦労知らずの若い連中は、初舞台を踏む興奮も嬉しさも、金策の苦労で消されがちだった。
ただ圭子は、十四場の長い芝居に、どの場もどの場もやり甲斐があり、殊に「彼女」という役そのものが、貧苦に責められながら、純情と女らしさとで、わが命の最後まで「彼」を愛して、「彼」を援《たす》けつづけるという役だけに、今度の公演でも、たとい困難があっても、自分があらゆる犠牲を払って、五日間の公演を無事に済ませようといったような純情的な興奮に燃えていた。
初日の夜の十一時過ぎ、身体は疲労しているが、頭ばかりは興奮して、冴えてしまっている圭子は、昭和通りのマリキタという、スペイン風の酒場で、小池と差向いで、ジン・フィズの盃を、半分くらい乾していた。
小池は、快活な小
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