持にだけなって下さればいいんです。」
すぐには、返事が出来なかった。
「それそれ、そんなに考えないで下さい。考えれば、どうしたって、余計な思案が入って来ますよ。」
「それでいいのでしょうか。」新子の声が弱々しくかすれた。
「いいどころじゃない。僕達が別れたくないためには、そうしなければならない。理性にだけつけば、僕達は軽井沢で、もう別れて路傍の人になっていますよ。あんな酒場なんか出さないし、今度の事件なんか起らないんですよ。理性と感情と中途半端だから、ゴタゴタするんですよ。僕は、今度は貴女を失いたくないという自分の感情本位で行動しますよ。」
「私だって、感情だけで行動できたら、どんなに幸福だろうかと思いますの……、美和子のように……」
「うむ。」と、前川は深くうなずくと、たちまち自分の目頭がうるむのを覚え、新子が限りなく、いじらしくなり、ギュッと抱きしめて、顔中に唇の雨を降らせたい激しい衝動を感じるのを、息を呑み込んで、ズンズン歩きつづけることで、やっと押えた。
京橋の十字路も、いつか越していた。
「お腹すかない?」
「何だか分りませんの。胸が一杯でご飯頂けるかしら……」
「随分歩いたから、ともかく落着きましょう。」と、その通りの路次を、少しはいった、大きい日本造りの鳥料理の店を、ステッキの先で示しながら、
「あの家静かですから……」
新子はその先を見やりもせず、
「でも、そこまで行ってしまうの、なかなか勇気がいりますわねえ。」
「よろしい。今までは、僕がいけなかった。僕も勇気を出す、そして貴女にも勇気を出してもらうようにする。それでやってみて、もし日本が、住みにくかったら、一緒に三、四年外国へ行っていようじゃありませんか。」
と、前川は獅子の如く勇敢に、料理屋の門をはいって、玄関へつづく砂利の小径を、新子のかぼそい身体を、抱くようにしながら、グングン歩いて行った。
底本:「貞操問答」文春文庫、文藝春秋
2002(平成12)年10月10日第1刷
底本の親本:「菊池寛全集 第十三巻」高松市立菊池寛記念館刊
1994(平成6)年11月
入力:kompass
校正:土屋隆
2007年8月10日作成
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