ランブランさせながら、悄気《しょげ》かえって、父をむかえた。
「パパ!」
「何だい。」
「南條先生泣いているよ。泣いちゃったよ。」
「先生どこに居る?」
「お部屋にいる。僕、先生のお部屋をのぞきに行ったら、お机のところにこうしているの、きっと泣いているんだよ。ママこわいから厭さ。」
「お前が、余計なことを云うからいけないんだよ。」
「だってさ、南條先生、東京へ帰ってしまうだろう。そしたら、僕はかまわないけれど、祥子が困るでしょう。」分別のある大人のような口調だった。

        二

 新子は、部屋に帰ると、一しきり口惜《くや》し涙にむせんでいたが、それが乾く頃には夫人に対してあまりに思い切った態度を取ったのを、後悔していた。
 夫人との間には、何の貸借《かしかり》もないが、準之助氏に対しては、そうは行かなかった。姉のために、あんな大金を借りたばかりである。相手が、どんな好意で貸してくれたにしろ、自分は月給の中から、いくらかずつでも払おうと思っているのに、ここで夫人と争って出てしまえば、あまりに義理が悪すぎる。この家へはいる時、路子さんからも、特別に注意されていたのに、もっと隠忍すべきであった。
 準之助氏に、何と云い出そうかと、思い悩んでいたので、部屋にそっと、はいって来た小太郎の手が、肩にかかるまで気がつかなかった。
「はい、先生! これパパから。」肩に置かれた小さい手から、眼の前に白い紙片が降った。
「まあ! 小太郎さん。」振り向いた新子の顔が、案外笑顔であったので、小太郎も笑った。
「さよなら。」でも、小太郎はまだ少し、テレていると見え、ふざけたおじぎ[#「おじぎ」に傍点]を一つして、すぐ部屋を駆け出して行った。
 新子は、レター・ペイパーを二重に折った書付を開けてみた。

 今日のことごかんべんありたし。なお、お願いしたきことあり、今すぐサナトリウムの前にて、お待ち下されたし。

 と、書いてあった。
 このわずかな文字は、彼女を生々とさせた。もうすべてのいきさつ[#「いきさつ」に傍点]を知っている準之助氏が、自分を引き止めてくれるのだろう。もし、そうなれば、自分も難きを忍んで、夫人に謝りに行こう。彼女は、準之助氏が自分を部屋へ呼ばないのは、夫人を憚《はばか》っているためであろうと思った。その方が、自分も話しやすい。
 彼女は、コンパクトを出して、涙
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