口に陣を布いていたが、鳥羽の砲声を聴くと、浜通りを東へ、京町を北へ進撃して戦った。所が伏見の東方桃山は、彦根藩が守って居り、幕軍では、自分達の味方だと思っていた所、薩藩は開戦となると、朝命を以て彦根勢を退去せしめ、その後に自軍の大砲を運び上げ、伏見の町を眼下に見おろして、打ちまくった。新選組は、伏見の奉行所の門前に戦っていたが、味方なりと思っていた背後より撃たれたので、一たまりもなく敗れて、勇の養子周平外十七人|斃《たお》された。
此夜、十二時近くなって、戦線に到着した窪田備前守麾下のフランス伝習隊は、幕軍の精鋭で、目覚ましき奪闘をなし、薩藩を破り長州勢を破り、墨染まで北進したが、薩兵の伏《ふせ》に陥り、備前守が討死したため、遂に退却した。
此の夜は終夜|烈《はげ》しい半市街戦が行われ、両軍とも死傷が多かったが、結局幕軍不利で淀まで退却した。
翌四日、土方は昨夜の敗戦に激怒して、千本松に陣立をなした。茲は、右は淀川で、左は水沢の地で頗る要害の隘路で京軍を支えんとしたが、薩長の兵は小銃隊を以て、進撃して手もなく、新選組を打ち破った。そして、大衆文芸でおなじみの山崎|蒸《すすむ》を初め三十人ばかり討死した。剣では、どうにも仕方がなかったのであろう。
数年来新選組は、京洛の地に於て、薩長の志士と睨《にら》み合っていたが、その清算が今度の戦争で行われたわけである。
その後、江戸に来ていた近藤勇に、依田《よだ》学海が「伏見の戦争はどうだった?」と訊いたところ、彼は傍《そば》の土方歳三を顧みて「此の男に訊いてくれ」と云った。土方が、「これからの戦争は、刀や槍では役に立たぬ。鉄砲には敵《かな》わない」と、苦笑しながら答えたのは、有名な話である。
翌四日にも、幕軍は敗勢を返さんとして戦ったが、此日仁和寺宮|嘉彰《よしあき》親王が、金甲馬に跨《またが》り、前駆に錦旗を飜して、陣頭に進まれたので、絶えて久しき錦の御旗を仰いだわけで、官賊の別が判然としたので、薩長の軍は意気軒昂となり、幕軍は意気沮喪して、いよいよ敗勢の著しいものがあった。
五日には、淀城附近で会津の槍隊が奮戦して、敵の隊長石川|厚狭介《あつさのすけ》などを斃したが、淀城の城主稲葉家は、例の春日の局の血縁で、幕府には恩顧深き家柄であるに拘らず、朝廷に帰順の意を表して、幕軍が淀城に拠るを許さず、また幕府のため
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