いに決する所あり、土越二藩|尚《なお》前説を固執するならば、いかなる不測の変あらんも測られざるに至ったので、浅野|茂勲《しげのり》その間に周旋して遂に容堂、春嶽をして譲歩せしめた。
岩倉説勝を占めて、その翌日慶喜に対し、将軍職辞退の聴許があり、更に退官納地を奉請するように、諭《さと》されることになった。
此の結果に対して、幕府の上下会桑二藩が、承服する筈はない。
慶喜が、大政奉還を奏請したる以上、その善後策の朝議には、慶喜を初め会桑二藩も当然参加せしめらるべきものと、期待していたに拘わらず、会桑二藩は禁門の警衛を解かれて了《しま》うし、慶喜は朝議に参加せしめられないばかりか、新政府に何等の座席をも与えられないのであるから、彼等の憤懣察すべきものである。
此時は、芸兵入京し、長兵も亦《また》入京していたので、慕府及びその一統が、憤慨して手を出せば、やっつけてやろうと云う肚《はら》が排幕派にあったのである。
その時、二条城には幕府|麾下《きか》の遊撃隊を初め、例の新選組、見廻り組、津大垣の兵など集っていたが、朝廷の処置に憤激止まず、また流言ありて、今にも薩長の兵が二条城を来襲して来ると云うので、城壁に銃眼を穿《うが》ち始めると云うさわぎである。
慶喜は、このまま滞京していてはいかなる事変が突発するかも知れないと思ったらしく、激昂する麾下を慰撫しながら、閣老参政及び会桑二藩士を率いて、大阪へ下ったのである。
此の下阪に対し朝廷側では大阪の要地を占め、軍艦を以て海路を断ち薩長を苦しめるためだろうと疑うものもあり、一大決戦の避くべからざるを力説するものがあり、大阪城中に於ては、会桑二藩の激昂なお止まず、幕府に対する苛酷の処置は岩倉卿を初め、薩長二藩が至上の御幼少なるに乗じて私意を逞しゅうするものであるから、兵力に依って、君側の奸《かん》を除く外ないと切言する。
形勢|暗澹《あんたん》たるを憂いた尾、越、土の三侯は、慶喜が大阪にいては、いよいよ朝幕の間が疎隔するばかりであるから、再度おだやかに上京したらどうかと、勧説《かんぜい》したが、幕府側の識者は、今おだやかに上京するなど、最も不利である。上京するなら君側の奸を除く意味で、兵力を率いて、上京するに如《し》かずと云う。その賛成者がだんだん多くなって行く。
その時、江戸では、薩摩系の浪士が、乱暴を働いて、西丸に
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