《うひょうえ》信茂、跡部大炊助勝資等。勝頼自らは、前衛望月右近、後衛武田信友、同信光等と共に清井田原の西方に陣した。各部隊共兵三千、総軍一万五千である。各部隊の長は皆勝頼の一門であるが、揃って孰《いず》れも勝れた大将でもなく、この戦い敗れた後は命全うして信州へ逃げ帰った。それに引代え、軍の先鋒は信玄の秘蔵の大将であり、其他の将士も皆音に聞えた猛士であるが、この戦に殆んど総《すべ》て討死して仕舞った。智勇の良将を失った勝頼は爪牙を無くした虎の如く再び立ち得なかったのも当然である。
 戦機いよいよ熟した二十日の夜である。織田の陣中に於て、最後の軍評定が開かれた。陣中の座興にと、信長、家康の士酒井左衛門尉忠次に夷舞《えびすまい》を所望し、諸将|箙《えびら》を敲いて囃《はや》した。充分の自信があったのであろう。落付き払った軍議の席である。いよいよ評定に入るや、かの好漢忠次真先に、鳶ヶ巣以下の諸塁を夜襲し、併せて武田勢の退路を断たんことを提議した。信長、迂愚の策を、上席に先んじて口に出したと、怒って退出したが、密《ひそ》かに忠次を呼び入れて、「汝の策略は最も妙、それ故に他に洩れるのを慮って偽り怒ったのだ」と云って秘蔵の瓢箪板《ひょうたんいた》の忍び轡《ぐつわ》を与えた。忠次勇躍して、本多豊後守広孝、松平|主殿助伊忠《とのものすけこれただ》、奥平監物貞勝等と共に兵三千、菅沼新八郎を教導として進発した。松山越の観音堂の前で各々下馬して、甲冑《かっちゅう》を荷って嶮所をよじたが、宵闇ではあるし行悩んだ。忠次、そこで案内者を先に行かしめ、木の根に縄を結び付け、これにとり付いて一人|宛《ずつ》登って行かせた。菅沼山に勢揃するに一人の落伍者もなく着いた。つまりロック・クライミングをやったわけである。甲冑を着けると、鳶ヶ巣目がけて一勢に突撃した。本当は、旗本の士天野西次郎、一番槍であったが、戸田半平|重之《しげゆき》と云う士、此戦い夜明に及ぶかと考え、銀の晒首《さらしくび》の指物して乗り込んだのが、折柄のおそい月の光と、塁の焼ける火の光とで目覚しく見えた為に一番槍とされた。夜討の事だから誰も指物はなかったのであるが、半平だけ指物を持っていたので得をしたのである。塁の焼ける火が長篠の城壁に光を投げたが、夜襲成功と見て、城将貞昌は、大手門を一文字に開いて之を迎えた。奥平美作守|貞能《さだよし》一番乗であったが、陣中に貞勝、貞能、貞昌、父子無事の対面は涙ながらであったと伝える。武田の本軍、鳶ヶ巣以下の落城を知ったが、敵軍を前にして今更騎虎の勢い、退軍は出来ない。天正三年五月二十一日の暁時(丁度五時頃)武田の全軍は行動を開始した。初夏の朝風に軍馬は嘶《いなな》き、旗印ははためいて、戦機は充満した。此時、織田徳川方では丹羽勘助|氏次《うじつぐ》等を監軍とし、前田又左衛門利家等が司令する三千の鉄砲組が、急造の柵に拠って、武田勢の堅甲を射抜くべく待ち構えて居たのである。丸山、大宮を守る佐久間右衛門尉が五千騎に向って、浅木辺より進軍する武田勢三千、その真先に、白覆輪の鞍置いた月毛の馬を躍らし、卯の花|縅《おどし》の鎧に錆色の星冑|鍬形《くわがた》打ったのを着け、白旗の指物なびかせた老《おい》武者がある。武田の驍将馬場美濃守信房である。手勢七百を二手に分けると見ると、さっと一手を率いて真一文字に突入って、忽ち丸山を占領して仕舞った。そして新手を丸山の前に備えた。神速の行動に、もろくも一の柵を破られたので、明智十兵衛光秀、不破河内守等が馳せ来って応援したが、既にこの時は、二の柵まで押入られた。しかし信房の兵も鉄砲の弾に中って忽ちにして二百余人となったが、信房少しも驚かず、二の柵を取払った。真田源太左衛門信綱、同弟|兵部丞《ひょうぶのじょう》、土屋右衛門尉等が、信房に退軍をすすめに来た時には、僅か八十人に討ちなされて居た。信房は真田兄弟が防戦する間に退いた。明智の部下六七人が、真田兄弟の働き心にくしと見て迫るのを、兵部丞にっこり笑って、「滋井《しげい》の末葉|海野《うんの》小太郎幸氏が後裔真田一徳斎が二男兵部丞昌綱討ち取って功名にせよ」と名乗るや三騎を左右に斬って棄てた。自分も弾に中って死んだのだが、兄源太左衛門も青江貞次三尺三寸の陣刀をふりかぶりふりかぶり、同じ所で討死した。土屋右衛門尉も、池田紀伊守、蒲生忠三郎の備えを横合から突崩した。側の一条右衛門大夫信就に向って云うには、「某《それがし》は先月信玄公御法事の時殉死を遂げんとした処高坂昌澄に諫《いさ》められて本意なく今日まで存命した。今日この場所こそは命の棄て処である」と。進んで三の柵際まで来て、自ら柵を引抜き出した。大音声で名乗りを挙げるが、織田勢その威に恐れて誰も出合わない。雨の様な弾丸は、右衛門尉の冑《かぶと》に五つ当った。年三十一で討死である。
 此手の大将馬場信房は、一旦退いたものの直ちに引返して、手勢わずか八十をもって三の柵際に来り、前田利家、野々村三十郎等の鉄砲組の備えを追散らして居た。勇将の下《もと》弱卒なしである。が、敵は近寄らずに、鉄砲で打ちすくめようとするのである。一条右衛門大夫来って退軍をすすめた。もう此時分には、信房の右翼軍ばかりでなく、中央の内藤修理の軍も、左翼の山県三郎兵衛の軍も、敵陣深く攻め入りながらも、いずれも鉄砲の威力の前、総崩れになろうとして居たのである。一条の勧めに対して信房は、「勝頼公の退軍に殿《しんがり》して討死仕ろう」と答えた。猿橋《えんきょう》辺から出沢《すざわ》にかけて防戦したが、勝頼落延びたりと見届けると、岡の上に馬を乗り上げ、「六孫王|経基《つねもと》の嫡孫摂津守頼光より四代の孫源三位頼政の後裔馬場美濃守信房」と名乗った。塙《ばん》九郎左衛門直政の士川井三十郎突伏せて首を挙げたが、信房は敢て争わなかった。年六十二。自らの諫言を取り上げなかった主勝頼の為に、ついに老骨を戦場に晒《さら》したわけである。十八の初陣から今まで身に一つの傷を負わないと云う珍しい勇将であるが、或時若き士達に語って曰く、
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一、敵方より味方勇しく見ゆる日は先を争い働くべし。味方臆せる日は独《ひとり》進んで決死の戦いをすべし。
二、場数ある味方の士に親しみ手本とす。
三、敵の冑の吹返し俯《うつむ》き、指物動かずば剛敵、吹返し仰むき、指物動くは、弱敵なり。
四、槍の穂先上りたるは弱敵、下りたるは剛。
五、敵勢盛んなる時は支え、衰うを見て一拍子に突掛るべし。
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 と教えたと云う。
 中央の内藤修理の軍の働きも華々しいものであったが、結局は馬場信房の軍と同じ運命に陥らざるを得なかった。滝川左近将監四千余をもって佐久間の右手柳田に備えて居るのを、修理千五百を率いて押し寄せ、忽ちに一の柵を踏み破った。佐久間、滝川両軍の浮足を見て居た家康は、使をやって柵内に入り防禦すべく命じた。剛情|我儘《わがまま》の佐久間は怒って、「戦わずして崩れるのを、武田家では見崩《みくずれ》と称して大いに笑うものだ」と力み返った。家康これはいかんと云うので、自ら馬を飛して信長に事の次第を語った。信長直ちに使をやって誡《いまし》めようとしたが時既に遅く、両軍敗退の最中であった。修理は原隼人佐、安中左近、武田逍遙軒と共に、一の柵を馬蹄に蹴散らしたが、信長勢は二の柵に入り込んで、鉄砲ばかりを撃って居る。修理大音あげて、「上方勢は鉄砲なくしては合戦が出来ないのか、柵を離れて武田の槍先受ける勇気がないのか、汚いぞ」と呼《よばわ》った。汚いとあっては、武士の不面目とばかり、滝川一益、羽柴秀吉、柵外に出たのはよかったが、苦もなく打破られて仕舞った。畔《あぜ》を渡り泥田を渉って三の柵に逃げ込んだ。一益の金の三団子をつけた馬印を、危く奪われると云う騒ぎである。しかし修理、隼人佐、左近等も下馬して奮戦して居るうちに弾丸の為に倒れた。修理の首は、徳川の士朝日奈弥太郎が、采配と共に奪いとった。信長の策戦功を奏して、馬場、内藤の部隊が悉く将棋倒しに会って居るのを見た。だが、いかなる勇将猛士も鉄砲には敵《かな》わないのだ。「鉄砲など卑怯だぞ!」と理窟を云って見ても、相手が鉄砲を止めないのだから仕方がない。武田軍の左翼山県三郎兵衛昌景は千五百騎を率いて、一旦豊川を渡り、柵をしてない南方から攻め入ろうとしたが、水深く岸も嶮しいので、渡ることが出来ない。徳川の士、大久保七郎右衛門、同弟次右衛門、六千の兵をもって、竹広の柵の前一町計りの処に陣取って居るのを幸として、昌景一気に徳川勢の真中に突入ったので、敵味方の陣が反対になった。物凄い中央突破である。昌景即ち人数を二手に分け、大久保勢の柵内に逃げ帰るを防いだ。山県の士広瀬郷左衛門、白の幌張の指物をさし、小菅五郎兵衛赤のを指して、揚羽の蝶の指物した大久保七郎右衛門、金の釣鏡《つりかがみ》の指物の弟次右衛門と竹広表の柵の内外を馳せ合せて相戦う様は、華々しい光景であった。小菅は痛手を蒙《こうむ》って退いたが、広瀬は猶敵勢のなかを馳《か》け廻って、武者七騎を突伏せ、十三騎に手を負わしたと云うから大したものである。山県勢、大久保勢と押しつ押されつの激戦をくり返して居るうちに、弾丸で死するもの、六百に及んだ。昌景屈せず、柵を破れと下知して戦ったが、忽ちに復《また》二百余りは倒れ、疵《きず》つくものも三百を越えた。しかし手負の者も、三ヶ所以上負わなければ退かせない。昌景自身冑の吹返《ふきかえし》は打砕かれ、胸板、弦走《つるばしり》の辺を初めとして総て弾疵《たまきず》十七ヶ所に達したと伝えるから、その奮戦の程が察せられる。昌景の士志村又右衛門、昌景の馬の口を押えて、退軍して士気を新にすることを奨めた。そこで馬を返そうとすると、既に敵の重囲の中であるから、朱の前立《まえだて》を見て、音に聞えた山県ぞ、打洩すなと許り押し寄せて来る。広瀬郷左衛門、志村又右衛門等これを押え戦う暇に、昌景退こうとして、ふと柵に眼を放つと、この乱軍の中に悠々と破られた柵を修理して居る男がある。「柵の杭《くい》はかく打つもの、結び様はこの様にするもの」と云い乍《なが》ら立ち働いて居るのを見て、昌景、「彼奴《かやつ》は尋常の士ではない、打ち取れ」と馬上に突っ立つ処に、弾丸、鞍の前輪から後に射通した。采配を口に銜《くわ》え、両手で鞍の輪を押えて居たが、堪らず下に落ちた。徳川の兵|馳《はし》り寄って首を奪い、柵内に逃げもどろうとするのを志村追かけ突伏せてとり返す事を得た。昌景初め飯富源四郎と称したが、信玄その武功を賞して、武田家に由緒ある山県の名を与えたのであった。常々武将の心得を語るのに、「二度三度の首尾に心|驕《おご》る様ではならない。刀ですら錆びる。まして油断の心は大敵である。心驕ることなく、家臣の忠言を容れるのが第一である」として居たが、彼の座右の銘が勝頼に解し得なかったのは是非もない次第であった。昌景が討死の前、眼をつけた武士は、羽柴秀吉であったと伝えられる。武田左馬助、小山田兵衛尉、跡部大炊助等も別の一手をもって、弾正台の家康を目指すけれど大勢は既に決した。望月甚八郎、山県討死の処に乗入れて敗残の兵を引上げしめようとしたが、弾丸一度に九つも中り、脚と内冑を撃たれて果てた。ここに至って甲斐の武将勇卒概ね弾丸の犠牲となり終って、武田勢総敗軍の終局となる。敵浮足立ったりと見ると、織田徳川の両軍は柵外に出でて追撃戦に移った。信長の使が徳川の陣に来って、先陣せよと下知を伝えた処、大久保兄弟に属している内藤四郎右衛門|信成《のぶなり》、金の軍配|団扇《うちわ》に七曜の指物さしたのが、「我主君は他人の下知を受けるものではない。内藤承って返答したりと申されよ」と云った。意気|昂《あが》って鼻いきが荒いのである。徳川の脇備《わきぞなえ》、本多平八郎、榊原小平太、直ちに勝頼の本陣に突懸った。勝頼騒がず真先に馳《か》け合せようとするのを、土屋惣蔵馬の轡《くつわ》を押え、小山田十郎兵衛以下旗本の士
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