その時に、紅軍の大将たる忠直卿は、自ら三間柄の大身の槍をりゅうりゅうと扱《しご》いて、勇気凜然と出場した。まことに山の動くがごとき勢いであった。白軍の戦士は見る見るうちに威圧された。最初に出た小姓頭の男はかねがね忠直卿の猛勇を恐れているだけに、槍を合わすか合わさぬかに、早くも持っていた槍を巻き落されて、脾腹《ひばら》の辺を突かれると、悶絶せんばかりにへたばってしまった。続く馬回りの男とお納戸《なんど》役の男も、一溜りもなく突き伏せられてしまった。が、白軍の副将の大島左太夫《おおしまさだゆう》という男は、指南番大島左膳の嫡子であって、槍を取っては家中無双の名誉を持っていた。
「殿のお勢いも、左太夫にはちと難しかろう」という囁きが、いずこともなく起こった。が、激しく七、八合槍を合わせたかと見ると、左太夫は、したたかに腰の辺を一突き突かれて、よろめく所をつけ入った忠直卿のために、再び真正面から胸の急所を突かれていた。見物席にいた家中一統は、思う存分に喝采した。忠直卿は、やや息のはずまれるのを制しながら、静かに相手の大将の出るのを待った。心のうちは、いつものように得意の絶頂であった。
 白軍の大将は小野田右近《おのだうこん》といった。十二の年から京における槍術の名人|権藤左門《ごんどうさもん》に入って、二十の年には、師の左門にさえ突き勝つほどの修練を得ていた。が、忠直卿は何物をも恐れない。「えい!」と鋭く声を掛けられると、猛然として突き掛った。ただ技術の力というよりも、そこには六十七万石の国主の勢いさえ加わるごとく見えた。二十合にも近い激しい戦いが続いたかと思うと、右近は右の肩先に忠直卿の激しい一突きを受けて、一間ばかり退くと、
「参りました」と、平伏してしまった。
 見物席の人々は、北の庄の城の崩るるばかりに喝采した。忠直卿は得意の絶頂にあった。上席に帰ると、彼は声を揚げて、
「皆の者大儀じゃ。いでこれから慰労の酒宴を開くといたそうぞ」と、叫んだのであった。
 彼は近頃にない上機嫌であった。酒宴の進むにつれ、寵臣は代る代る彼の前に進んだ。
「殿! 大坂陣で矢石《しせき》の間を往来せられまして以来は、また一段と御上達遊ばされましたな。我らごときは、もはや殿のお相手は仕りかねます」と申し上げた。大坂陣の話をさえすれば、忠直卿は他愛もなく機嫌がよかった。
 が、忠直卿もいたく酔ってしまった。一座を見ると、正体もなく酔い潰れている者が大分多くなっている。管をまく者もある、小声で隆達節《りゅうたつぶし》を唄っている者もある。酒宴の興は、ほとんど尽きかけている。
 忠直卿はふと奥殿に漲《みなぎ》っている異性のことを思い出すと、男ばかりの酒宴が殺風景に思われて来た。彼はつと立って、
「皆の者許せ!」といい捨てたまま座を立った。さすがに酔い潰れた者も、居住いを正して平伏した。今まで眠りかけていた小姓たちは、はっと目をさまして主君の後を追った。
 忠直卿が、奥殿へ続く長廊下へ出ると、冷たい初秋の風が頬に快かった。見ると、外は十日ばかりの薄月夜で、萩の花がほの白く咲きこぼれている辺から、虫の声さえ聞えて来る。
 忠直卿は、庭へ下りてみたくなった。奥殿からの迎いの侍女たちを帰して、小姓を一人連れたまま、庭に下り立った。庭の面には、夜露がしっとりと降りている。微かな月光が、城下の街を玲瓏《れいろう》と澄み渡る夜の大気のうちに、墨絵のごとく浮ばせている。
 忠直卿は、久し振りにこうした静寂の境に身を置くことを欣《よろこ》んだ。天地は寂然《じゃくねん》として静かである。ただ彼が見捨ててきた城中の大広間からは、雑然たる饗宴の叫びが洩れてくる。それも彼が座を立ってからは、一段と酒席が乱れたとみえ、吾妻拳を打つ掛声まで交って聞える。が、それもよほどの間隔があるので、そううるさくは耳に響いて来ない。
 忠直卿は萩の中の小道を伝い、泉水の縁を回って小高い丘に在る四阿《あずまや》へと入った。そこからは信越の山々が、微かな月の光を含んでいる空気の中に、朧《おぼろ》に浮いて見える。忠直卿は、今までの大名生活においてまだ経験したことのないような感傷的な心持にとらわれて、思わずそこに小半刻を過した。
 すると、ふと人声が聞える。今まで寂然として、虫の声のみが淋しかった所に人声が聞え出した。声の様子でみると、二人の人間が話しながら、四阿の方へ近よってくるらしい。
 忠直脚は、今自分が享受している静寂な心持が、不意の侵入者によって掻き乱されるのが厭であった。
 しかし、小姓をして、近寄って来る人間を追わしむるほど、今宵の彼の心は荒《すさ》んではいなかった。二人は話しながら、だんだん近づいて来る。四阿のうちへは月の光が射さぬので、そこに彼らの主君がいようとは、夢にも気付いていないらしい
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