。が、それは自分を愛しているのではない、ただ臣下として、君主の前に義務を尽くしているのに過ぎなかった。彼は、恋愛の代りに、義務や服従を喫するのに、飽き果ててしまっていた。
 彼の生活が荒《すさ》むに従って、彼は単なる傀儡《かいらい》であるような異性の代りに、もっと弾力のある女性を愛したいと思った。彼を心から愛し返さなくてもいいから、せめては人間らしい反抗を示すような異性を愛したいと思った。
 そのために、彼は家中の高禄の士の娘を、後房へ連れて来させた。が、彼らも忠直卿のいうことを、殿の仰せとばかり、ただ不可抗力の命令のように、なんの反抗を示さずに忍従した。彼らは霊験あらたかな神の前に捧げられた人身御供のように、純な犠牲的な感情をもって忠直卿に対していた。忠直卿は、その女たちと相対していても、少しも淫蕩な心持にはなれなかった。
 彼の物足りなさは、なお続いた。彼は夫の定まっている女なら、少しは反抗もするだろうと思った。彼は、命じて許婚《いいなずけ》の夫ある娘を物色した。が、そうした女も、忠直卿の予期とは反して、主君の意志を絶対のものにして、忠直卿を人間以上のものに祭り上げてしまった。
 もうこの頃から、忠直卿の放埒《ほうらつ》を非難する声が、家中の士の間にさえ起った。
 が、忠直卿の乱行は、なお止まなかった。許婚の夫ある娘を得て、少しも慰まなかった彼は、さらに非道な所業を犯した。それは、家中の女房で艶名のあるものを私《ひそか》に探らしめて、その中の三名を、不時に城中に召し寄せたまま、帰さなかったことである。
 主君の御乱行ここに極まるとさえ、嘆くものがあった。
 夫からの数度の嘆願にかかわらず、女房は返されなかった。重臣は、人倫の道に悖《もと》る所業として忠直卿を強諫《きょうかん》した。
 が、忠直卿は、重臣が諫むれば諫むるほど、自分の所業に興味を覚ゆるに至った。
 女房を奪われた三人の家臣のうち、二人まで忠直卿の非道な企ての真相を知ると、君臣の義もこれまでと思ったと見え、いい合わせたごとく、相続いて割腹した。
 横目付からその届出があると、忠直卿は手にしていた杯を、ぐっと飲み干されてから、微かな苦笑を洩されたまま、なんとも言葉はなかった。家中一同の同情は、翕然《きゅうぜん》として死んだ二人の武士の上に注がれた。「さすがは武士じゃ。見事な最期じゃ」と、褒めそやす者さえ
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