ってしまった。一座を見ると、正体もなく酔い潰れている者が大分多くなっている。管をまく者もある、小声で隆達節《りゅうたつぶし》を唄っている者もある。酒宴の興は、ほとんど尽きかけている。
 忠直卿はふと奥殿に漲《みなぎ》っている異性のことを思い出すと、男ばかりの酒宴が殺風景に思われて来た。彼はつと立って、
「皆の者許せ!」といい捨てたまま座を立った。さすがに酔い潰れた者も、居住いを正して平伏した。今まで眠りかけていた小姓たちは、はっと目をさまして主君の後を追った。
 忠直卿が、奥殿へ続く長廊下へ出ると、冷たい初秋の風が頬に快かった。見ると、外は十日ばかりの薄月夜で、萩の花がほの白く咲きこぼれている辺から、虫の声さえ聞えて来る。
 忠直卿は、庭へ下りてみたくなった。奥殿からの迎いの侍女たちを帰して、小姓を一人連れたまま、庭に下り立った。庭の面には、夜露がしっとりと降りている。微かな月光が、城下の街を玲瓏《れいろう》と澄み渡る夜の大気のうちに、墨絵のごとく浮ばせている。
 忠直卿は、久し振りにこうした静寂の境に身を置くことを欣《よろこ》んだ。天地は寂然《じゃくねん》として静かである。ただ彼が見捨ててきた城中の大広間からは、雑然たる饗宴の叫びが洩れてくる。それも彼が座を立ってからは、一段と酒席が乱れたとみえ、吾妻拳を打つ掛声まで交って聞える。が、それもよほどの間隔があるので、そううるさくは耳に響いて来ない。
 忠直卿は萩の中の小道を伝い、泉水の縁を回って小高い丘に在る四阿《あずまや》へと入った。そこからは信越の山々が、微かな月の光を含んでいる空気の中に、朧《おぼろ》に浮いて見える。忠直卿は、今までの大名生活においてまだ経験したことのないような感傷的な心持にとらわれて、思わずそこに小半刻を過した。
 すると、ふと人声が聞える。今まで寂然として、虫の声のみが淋しかった所に人声が聞え出した。声の様子でみると、二人の人間が話しながら、四阿の方へ近よってくるらしい。
 忠直脚は、今自分が享受している静寂な心持が、不意の侵入者によって掻き乱されるのが厭であった。
 しかし、小姓をして、近寄って来る人間を追わしむるほど、今宵の彼の心は荒《すさ》んではいなかった。二人は話しながら、だんだん近づいて来る。四阿のうちへは月の光が射さぬので、そこに彼らの主君がいようとは、夢にも気付いていないらしい
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