から、市街の裏手の方へ回った。子供がうるさくついて来るので、手真似で追い払ったが、執拗《しつよう》にどこまでもついて来た。
彼らはふと営所らしい建物の前へ来た。日本の兵卒らしい人間が、槍のようなものを持って、その門を守っていた。
見ると、その営所を囲む木柵《もくさく》に多くの男女が集っていた。ワトソンが行くと、彼らはこの異邦人を恐れるように避けた。ワトソンは木柵に身を寄せながら営所の中を覗き込んだ。木柵から、一間と離れないところに、獣を入れるような檻《おり》があった。檻の中に、何かうごめいているようなものがあるので、ワトソンはじっと見つめた。すると、その格子の間から、蒼白い二つの人間の顔が現れて、彼を見てにっと微笑した。ワトソンは、恐ろしい戦慄が、身体を通じて流れるのを感じた。彼は、その人間の顔を認知《リコグナイズ》した。それは、紛《まぎ》れもなく、先夜自分たちの船を訪れたかの不幸なる日本青年たちであった。その檻は、二人の人間を容れるべく、あまりに狭かった。二人は膝を付き合わしながら、窮屈そうに座っていた。
二人の可憐《かれん》な有様が、ワトソンの心を暗くした。彼は思わず英語で、
「おお可憐な人々よ。君たちはいかにして捕われたか」と、大声で叫んだが、むろん通ずるはずはなかった。
が、ワトソンが叫ぶのを見ると、二人の青年は、ワトソンが彼らを認めたのがわかったと見えて、かなり欣《よろこ》んだ。そして、一人の――かの Scabies を患っている青年は、自分の掌《てのひら》を直角に頸部《けいぶ》に当て、間もなく自分の首が切断せられることを示しながら、しかも哄然《こうぜん》と笑ってみせた。ローマ人カトーを凌《しの》ぐような克己的な態度がワトソンを圧服した。ワトソンは木柵を掴《つか》んでいる自分の手が、ある畏怖《いふ》のために、かすかに震えるのを感じた。彼は二人の日本青年の命を救うために、どんなことでもしなければならないような気になっていた。
ふと見ると、笑った青年は、手で字をかく真似をしながら、筆紙をくれという意味を示した。ワトソンは、懐中を探って一本の鉛筆を探り当てた。が、身体中になんの紙片もなかった。すると、一人の日本少年が、どこからか薄い木片《こっぱ》を拾って来てくれた。が、一間も隔っている檻へ、いかにして差し入れようかと考えていると、老人の牢番が、それを受けついで渡してくれた。
かの青年は、鉛筆を受け取ると、それを不思議そうに一|瞥《べつ》して後、なんの躊躇もなく、木片の上に流暢《りゅうちょう》に書き始めた。十五分間の後、余地のないほどに字を書き詰められた木片が、ワトソンの手に返された。
ワトソンは、青年たちに目礼し、心のうちでこの不幸な青年たちの祝福を祈りながら、船へ帰って来た。そして、その木片を支那語の通辞である広東人《カントンじん》羅森《らしん》に示した。
羅森は次のように訳した。
[#ここから1字下げ]
英雄一|度《たび》その志すところに失敗せば、かの行為は、奸賊《かんぞく》強盗《ごうとう》の行為をもって目せらる。我らは衆人環視のうちに捕えられ縛《いまし》められ、暗獄《あんごく》のうちに幽閉《ゆうへい》せられる。村の長老は、侮蔑をもって我らを遇し、我らを虐待すること甚し。
六十余州を踏破《とうは》するの自由は、我らの志を満足せしむる能わざるが故に、我らは五大洲を周遊せんことを願えり、これ我らが宿昔《しゅくせき》の志願なりき。我らが多年の計策は、一朝にして失敗せり。しかして今や我らは、隘屋《あいおく》のうちに禁錮せられ、飲食、休息、睡眠すべて困難なり。我らは、この囹圄《れいご》より脱する能わず。泣かんか、愚人のごとし。笑わんか、悪漢のごとし。嗚呼《ああ》、我らは黙して已《や》まんのみ。
[#ここで字下げ終わり]
提督《ていとく》ペリーをはじめ、先夜の会議に列した人々は、揃ってこの訳文を読んだ。そして、銘々に深い感激を受けずにはおられなかった。
「なんという英雄的な、しかも哲学的な安心立命《あんじんりつめい》であろう」
提督は深い溜め息とともにそう呟《つぶや》いた。
不意に、歔欷《きょき》の声が一座をおどろかした。それは、若い副艦長のゲビスであった。
提督は、ゲビスのそばに進みよって、その肩を軽打した。
「そうだ。君の感情がいちばん正しかったのだ。君はこれからすぐ上陸してくれたまえ。そして、この不幸な青年たちの生命を救うために、私が持っているすべての権力を用うることを、君にお委せする」
ゲビスは、それをきくと、勇み立って出て行った。
ワトソンは、心の苦痛に堪えないで、自分の船室へ帰って来た。が、そこにもじっとしていることができなかった。彼は、自分の船医として主張した一言が、果して正当であったかどうかを考えずにはおられなかった。彼の心には Scabies が、この高貴にして可憐な青年の志望を犠牲にしなければならないほど恐ろしい伝染病であるかどうかが、疑われてきた。彼は、皮膚病学の泰斗《たいと》がそれについてどういう言説をなしているかを知って、自分の激しく動揺する良心を落ち着けたいと思った。彼は悄然《しょうぜん》として、船の文庫《ライブラリー》の方へ歩いて行った。
底本:「菊池寛 短編と戯曲」文芸春秋
1988(昭和63)年3月25日 第1刷発行
入力:真先芳秋
校正:大野 晋
2000年2月8日公開
2004年2月16日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
前へ 終わり
全3ページ中3ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
菊池 寛 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング