して、やや波立っている大洋を、巨鯨《きょげい》のごとく走っているのだった。
「見られい! あの勢いを」
 寅二郎は敵愾《てきがい》の心も忘れて、嘆賞した。
「毛唐め! やりおる! やりおる! あのように皇国《みくに》の海を人もなげに走りおる!」
 慷慨家《こうがいか》の金子は、翼なき身を口惜しむように、足摺《あしず》りしながら叫んだ。
「なに、今にメリケンヘ渡ってあの術を奪ってやるのだ。夷人《いじん》の利器によって夷人を追い払うのだ」
 寅二郎は、熱海の湯の宿で作ってくれた大きい握り飯をほおばりながら叫んだ。

          二

 二人が、下田へ着いたのは、翌十八日の午後であった。昨日途中で見た二艘の火輪船は、港口近くに停泊していた。二人は宿を取ると、すぐ港を警衛している役人たちに会って、それとなく黒船の様子をきいてみた。
 役人たちの話によると、この二艘は先発隊で、大将ペリーはまだ来ていない。その上、漢語ばかりでなく、オランダ語を話す通辞《つうじ》さえいないので、薪水《しんすい》積込《つみこ》みの応答にさえ困っているということであった。通辞がいないとすれば、潜《ひそ》かに乗り付けて、事情を陳《の》べて、便乗することは、絶対に不可能である。二人は、ペリーが乗っている将艦が入港するのを待つよりほかはなかった。
 二十日の朝だった。寅二郎は、自分の指の股や腕首に、四、五日前からできている腫物《はれもの》が膿を持っているのに気がついた。
 鎌倉の宿を立った朝、彼は自分の指間《しかん》や腕首や肱《ひじ》に、小さいイボのようなぶつぶつがいくつもできているのを知った。その夜小田原の宿で泊ると、小さいぶつぶつの各々が虫の匍《は》うような、いじりがゆさを与えた。彼はこれを幾度も掻いた。掻けば掻くほど、痒《かゆ》さが増した。
 それが、三日、四日と経つうちに、数が多くなり、ことに昨夕《ゆうべ》は痒《かゆ》さのためによく眠れなかったが、今朝見ると、白く膿を湛えているのが、いくつもできている。それが、手指ばかりでなく、腹部にも腰の回りにも、腿《もも》にも、数は少ないが広がっている。紛《まが》う方なく、疥癬《しつ》である。
 考えてみると、保土ヶ谷の宿で給仕に出た女中が、頻《しき》りに手指を掻いていたのを思い出した。あの女中から伝染《うつ》されたのだと思ったが、どうすることもできな
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