わらず、その圧迫は、可なりに重苦しく、不快なものであった。岡村と吉川との、二人ばかりではなかった。その後から紹介された、十五六人の人々は、一人として、譲吉のような、見すぼらしい様子はして居なかった。
譲吉はその後、一週間ばかり、毎日自分の服装の不備に就《つ》いての、不快な意識を続けて居た。其《そ》の裡《うち》に漸《ようや》く、譲吉の世話になって居る、近藤夫人の好意になる背広が、出来上ったのであった。
自分の家が貧しい為、何等《なんら》の金銭上の補助を仰ぎ得ない譲吉に取っては、近藤夫人が何かにつけて唯一の頼りであった。譲吉が高等商業の予科に在学中、故郷に居る父が破産して危く廃学しようとした時、救い上げて呉《く》れたのは、譲吉の同窓の友人であった近藤の父たる近藤氏であった。夫以来譲吉はズーッと、学資を近藤夫人の手から仰いで居た。が、近藤夫人の譲吉に対する厚意は、ただ学資の補助と云う、物質的の恩恵には、止《とど》まらなかった。
譲吉に対する夫人の贈与なり注意には、常に温い感情が、裏附けられて居た。その温情を譲吉は、沁々《しみじみ》と感じて居るのであった。学資ばかりでなく、譲吉は、衣類や襯衣《シャツ》や、日用品の殆《ほとん》ど凡《すべ》てを、近藤夫人の厚意に依って、不自由しなかったのである。
学校を出てからも、譲吉は近藤夫人の庇護《ひご》なしには、何《ど》うともする事が出来なかった。
「富井さんも愈々《いよいよ》口が定《き》まったのなら、孰《いず》れ洋服が入《い》るでしょうから、三越へそう云ってお調《こし》らえなさい。少しいいのを調《こさ》えた方が結局は得ですから。」と譲吉が、入社が定まった事を報告に行くと、夫人は祝辞を述べてから、直《す》ぐこう云い出した。譲吉は夫人に金を借りてでも、洋服を新調したい積《つも》りであったから、夫人のこうした好意は、骨身に浸みる程、有り難く感じたのである。無論、近藤夫人の好意は、洋服|丈《だけ》には止まらなかった。
「色々の身の廻りの物が入るでしょうから。」と云いながら、夫人は新しい十円札を三枚、譲吉の前に差し出した。
譲吉は、過去に於て幾度《いくたび》、夫人の華奢《きゃしゃ》な手から、こうした贈与を受けたかも知れない。その度に譲吉は、夫人から受くる恩恵に狎《な》れて、純な感謝の念が、一回毎に、薄れて行かぬよう、絶えず自分の心を戒し
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