に悲しんで居る人々と、社交上の義理で悲しみを装って居る人々との間に交って、譲吉は、自分一人の特有な悲しみを守って居た。
殊に、夫人が仏教の信者であった為めに、仏教の形式主義《フォマリズム》が、飽く迄もこの悲しみの家を支配して居た。坊主が、眠むそうな声をして、阿弥陀経《あみだきょう》などを読み上げるたびに、譲吉は却《かえ》って自分の純な悲痛の感情が、傷《きずつ》けられるのを覚えた。殊に、初てのお通夜の晩に、菩提寺《ぼだいじ》の住職がお説教をしたが、その坊主は自分の説教に箔《はく》を附ける為か、英語を交じえたりした。
「刹那《せつな》即《すなわ》ちモーメントの出来事を……」と、云ったような言葉遣いが、譲吉の僧侶に対する反感を、一層強めた。殊にその坊主が、
「米国のロックフェラア曰《いわ》く『人生は死に向って不断に進軍|喇叭《らっぱ》を吹いて居る』と、遉《さすが》は米国の大学者丈あって、真理を道破して居るようです……」と云った時には、譲吉は馬鹿々々しくなって、席を脱《はず》した。恐らくこの男は詩人ロングフェロウの言葉を聞き囓《か》じって居たのを、大富豪ロックフェラアに結び附けて而もロックフェラアを大学者にしてしまったに相違ない。譲吉は、最も厳粛な筈の、第一夜のお通夜の晩に、こうした出鱈目《でたらめ》を云って居る僧侶その者に対して、憐憫《れんびん》を感ずると同時に、軽い反感を覚えるのを、何うともする事が出来なかった。
第二夜のお通夜の人々は、第一夜の人々よりも、お通夜に相当な感情を持ち合わして居なかった。更に第三夜になると、近藤夫人とは生前には、一度も顔を合わしたことのないような人が、眠い眼をこすって居た。
葬式の日に於ても譲吉は、多少の不満を感ぜずに居られなかった。譲吉と、夫人との間には多くの僧侶が介在し、多くの縁者親戚が介在し、譲吉は単なる会葬者の一人として、遠くから、夫人の遺骸に訣別《けつべつ》の涙を手向《たむ》けたに過ぎなかった。
京都からワザワザ上京したと云う御連枝が、音頭《おんど》を取って唱える正信偈《しょうしんげ》は、譲吉の哀悼の心を無用に焦立たせたに過ぎなかった。
夫人が、死んでから二三週間、譲吉は、自分の心に生じた空虚を明かに感じた。夫人は彼に取ってもう掛換《かけがえ》のない人であった。譲吉が現在の生活を享《う》けて居るのは、殆ど夫人の力であっ
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