げてしまったのである。
老婆には驚愕と絶望とのほか、何も残っていなかった。ただ店にある五円にも足りない商品と、少しの衣類としかなかった。それでも今までの茶店を続けていけば、生きていかれないことはなかった。しかし彼女にはなんの望みもなかった。
二月もの間、娘の消息を待ったが徒労であった。彼女にはもう生きていく力がなくなっていた。彼女は死を考えた。幾晩も幾晩も考えた末に、身を投げようと決心した。そして堪えがたい絶望の思いを逃れ、一には娘へのみせしめ[#「みせしめ」に傍点]にしようと思った。身投げの場所は住み馴れた家の近くの橋を選んだ。あそこから投身すれば、もう誰も邪魔する人はなかろうと、老婆は考えたのである。
老婆はある晩、例の橋の上に立った。自分が救った自殺者の顔がそれからそれと頭に浮んで、しかも、すべてが一種妙な皮肉な笑いをたたえているように思われた。しかし多くの自殺者を見ていたお陰には、自殺をすることが家常茶飯《かじょうさはん》のように思われて、大した恐怖をも感じなかった。老婆はふらふらとしたまま、欄干からずり落ちるように身を投げた。
彼女がふと正気づいた時には、彼女の周囲には、巡査と弥次馬とが立っている。これはいつも彼女が作る集団と同じであるが、ただ彼女の取る位置が変っているだけである。弥次馬の中には巡査のそばに、いつもの老婆がいないのを不思議に思うものさえあった。
老婆は恥かしいような憤《いきどお》ろしいような、名状しがたき不愉快さをもって周囲を見た。ところが巡査のそばのいつも自分が立つべき位置に、色の黒い四十男がいた。老婆は、その男が自分を助けたのだと気のついた時、彼女は掴みつきたいほど、その男を恨んだ。いい心持に寝入ろうとするのを叩き起されたような、むしゃくしゃした激しい怒りが、老婆の胸のうちにみちていた。
男はそんなことを少しも気づかないように、「もう一足遅かったら、死なしてしまうところでした」と巡査に話している。それは、老婆が幾度も巡査にいった覚えのある言葉であった。そのうちには人の命を救った自慢が、ありありと溢れていた。
老婆は老いた肌が、見物にあらわに見えていたのに気がつくと、あわてて前を掻き合せたが、胸のうちは怒りと恥とで燃えているようであった。見知り越しの巡査は「助ける側のお前が自分でやったら困るなあ」というた。老婆はそれを聞き流して逃げるように自分の家へ駆け込んだ。巡査は後から入ってきて、老婆の不心得を諭したが、それはもう幾十遍もききあきた言葉であった。その時ふと気がつくと、あけたままの表戸から例の四十男をはじめ、多くの弥次馬がものめずらしくのぞいていた。老婆は狂気のように駆けよって、激しい勢いで戸を閉めた。
老婆はそれ以来、淋しく、力無く暮している。彼女には自殺する力さえなくなってしまった。娘は帰りそうにもない。泥のように重苦しい日が続いていく。
老婆の家の背戸《せど》には、まだあの長い物干竿が立てかけてある。しかし、あの橋から飛び込む自殺者が助かった噂はもうきかなくなった。
底本:「菊池寛 短編と戯曲」文芸春秋
1988(昭和63)年3月25日第1刷発行
入力:真先芳秋
校正:菅野朋子
1999年4月15日公開
2005年10月11日修正
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