水の一年の変死の数は、多い時には百名を超したことさえある。疏水の流域の中で、最もよき死場所は、武徳殿のつい近くにある淋しい木造の橋である。インクラインのそばを走り下った水勢は、なお余勢を保って岡崎公園を回って流れる。そして公園と分かれようとするところに、この橋がある。右手には平安神宮の森に淋しくガスが輝いている。左手には淋しい戸を閉めた家が並んでいる。従って人通りがあまりない。それでこの橋の欄干から飛び込む投身者が多い。岸から飛び込むよりも橋からの方が投身者の心に潜在している芝居気を、満足せしむるものと見える。
ところが、この橋から四、五間ぐらいの下流に、疏水に沿うて一軒の小屋がある。そして橋から誰かが身を投げると、必ずこの家からきまって背の低い老婆が飛び出してくる。橋からの投身が、十二時より前の場合はたいてい変りがない。老婆は必ず長い竿を持っている。そして、その竿をうめき声を目当てに突き出すのである。多くは手答えがある。もし、ない場合には、水音とうめき声を追いかけながら、幾度も幾度も突き出すのである。それでも、ついに手答えなしに流れ下ってしまうこともあるが、たいていは竿に手答えがある。それを手繰り寄せる頃には、三町ばかりの交番へ使いに行くぐらいの厚意のある男が、きっと弥次馬の中に交っている。冬であれば火をたくが、夏は割合に手軽で、水を吐かせて身体を拭いてやると、たいていは元気を回復し警察へ行く場合が多い。巡査が二言三言《ふたことみこと》、不心得を諭すと、口ごもりながら、詫言をいうのを常とした。
こうして人命を助けた場合には、一月ぐらい経って政府から褒状《ほうじょう》に添えて一円五十銭ぐらいの賞金が下った。老婆はこれを受け取ると、まず神棚に供えて手を二、三度たたいた後郵便局へ預けに行く。
老婆は第四回内国博覧会が岡崎公園に開かれた時、今の場所に小さい茶店を開いた。駄菓子やみかん[#「みかん」に傍点]を売るささやかな店であったが、相当に実入りもあったので、博覧会の建物がだんだん取り払われた後もそのままで商売を続けた。これが第四回博覧会の唯一の記念物だといえばいえる。老婆は死んだ夫の残した娘と、二人で暮してきた。小金がたまるに従って、小屋が今のような小奇麗な住居に進んでいる。
最初に橋から投身者があった時、老婆はどうすることもできなかった。大声を挙げて叫んでも、めったに来る人がなかった。運よく人の来る時には、投身者は疏水のかなり激しい水に巻き込まれて、行方不明になっていた。こんな場合には、老婆は暗い水面を見つめながら、微かに念仏を唱えた。しかし、こうして老婆の見聞きする自殺者は、一人や二人ではなかった。二月に一度、多い時には一月に二度も老婆は自殺者の悲鳴をきいた。それが地獄にいる亡者のうめき[#「うめき」に傍点]のようで、気の弱い老婆にはどうしても堪えられなかった。とうとう老婆は、自分で助けてみる気になった。よほどの勇気と工夫とで、老婆が物干の竿を使って助けたのは、二十三になる男であった。主家の金を五十円ばかり使い込んだ申し訳なさに死のうとした、小心者であった。巡査に不心得を諭されると、この男は改心をして働くといった。それから一月ばかり経って、彼女は府庁から呼び出されて、褒美の金を貰ったのである。その時の一円五十銭は老婆には大金であった。彼女はよくよく考えた末、その頃やや盛んになりかけた郵便貯金に預け入れた。
それから後というものは、老婆は懸命に人を救った。そして救い方がだんだんうまくなった。水音と悲鳴とをきくと、老婆は急に身を起して裏へかけ出した。そこに立てかけてある竿を取り上げて、漁夫が鉾《ほこ》で鯉でも突くような構えで水面を睨んで立って、あがいている自殺者の前に竿を巧みに差し出した。竿が目の前に来た時に取りつかない投身者は一人もないといってよかった。それを老婆は懸命に引き上げた。通りがかりの男が手伝ったりする時には、老婆は不興であった。自分の特権を侵害されたような心持がしたからである。老婆はこのようにして、四十三の年から五十八の今までに、五十いくつかの人命を救うている。だから褒賞《ほうしょう》の場合の手続などもすこぶる簡単になって、一週で金が下るようになった。政庁の役人は「お婆さんまたやったなあ」と笑いながら、金を渡した。老婆も初めのように感激もしないで、茶店の客から大福の代を貰うように、「おおきに」といいながら受け取った。世間の景気がよくて、二月も三月も投身者のない時には、老婆はなんだか物足らなかった。娘に浴衣地をせびられた時などにも、老婆は今度一円五十銭貰うたらといっていた。その時は六月の末で、例年《いつも》ならば投身者の多い季《とき》であるのに、どうしたのか飛び込む人がなかった。老婆は毎晩娘と枕を並べながら、
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