流して逃げるように自分の家へ駆け込んだ。巡査は後から入ってきて、老婆の不心得を諭したが、それはもう幾十遍もききあきた言葉であった。その時ふと気がつくと、あけたままの表戸から例の四十男をはじめ、多くの弥次馬がものめずらしくのぞいていた。老婆は狂気のように駆けよって、激しい勢いで戸を閉めた。

 老婆はそれ以来、淋しく、力無く暮している。彼女には自殺する力さえなくなってしまった。娘は帰りそうにもない。泥のように重苦しい日が続いていく。
 老婆の家の背戸《せど》には、まだあの長い物干竿が立てかけてある。しかし、あの橋から飛び込む自殺者が助かった噂はもうきかなくなった。



底本:「菊池寛 短編と戯曲」文芸春秋
   1988(昭和63)年3月25日第1刷発行
入力:真先芳秋
校正:菅野朋子
1999年4月15日公開
2005年10月11日修正
青空文庫作成ファイル:
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