もあり首をとつて立ちあがれば其首は、我主なりと名乗つて鑓《やり》つけるを見ては又其者を斬り伏せ後には十八九歳の草履取りまで手と手を取合差違へ候」とある。両旗本の激戦の様を記しているのである。他の諸隊も皆この通りであっただろう。とにかく甲越二軍の精兵が必死に戦ったのであるから、猛烈を極めただろう。後年大阪陣の時抜群の働で感状を貰った上杉家臣杉原|親憲《ちかのり》が「此度の戦いなぞは謙信公時代の戦いに比べては児戯のようだ」といったことがある。
一方妻女山に向った甲軍は午前七時頃妻女山に達し足軽を出して敵に当らしめたが山上|寂《せき》として声なく、敵の隻影もみえない。あやしげな紙の擬旗がすすきの間にゆれているばかりである。そのうち朝霧のはれた川中島の彼方から吶声《ときのこえ》、鉄砲の音がきこえるので切歯して、十将が川中島を望んで馳《か》け降りた。かくて、最も近い徒渉場たる十二ヶ瀬を渡ろうと急ぐや、越の殿軍甘粕近江守は川辺の葦間から一斉に鉄砲の雨をあびせたので、甲州兵悩まされながら、川の上下、思い思いに雨の宮の渡《わたし》猫ヶ瀬等から川を渡り北進した。猫ヶ瀬を渡った小山田隊は最も早く川中島に達し、越軍の最右翼新発田隊に向って猛烈に突撃した。この新手に敵し難く新発田隊は退却をはじめ、狗ヶ瀬を渡った甲軍も、謙信の旗本の背後にむかって猛進した。今や迂廻軍が敵の背後で喊声《かんせい》をあげているのを聞いた信玄の旗本軍も、士気|頓《とみ》にふるい、各将は「先手衆が来たぞ戦は勝ぞ」と連呼しつつ旗をふり鞍をたたいて前進した。形勢一変、今や越軍は総退却のやむなきに至った。そこで主将謙信は広瀬の方面に敵を圧迫していた諸将に速に兵をおさめて犀川方面に退却するよう命じ、親《みずか》らも柿崎等と共に背後の妻女山を迂廻して来た甲軍に当りつつ退いた。太郎義信も軍をととのえて謙信の旗本を追撃した。謙信は諸隊の退却をみとどけて最後に退いたが、甲軍の追撃猛烈のため犀川に退却するのが困難になったので、東方に血路を開き三牧畠《みまきばたけ》の瀬を渡って退いたといわれる。越軍の大部分は陣馬ヶ原で返撃し、丹波島の犀川を渡って善光寺方面へ総退却した。この犀川をわたるに当って甲軍の新手の追撃をうけて或は討死し或は溺れる者が続出した。犀川は水量が相当に多いのである。
越の殿軍甘粕近江守景持は部下を集めて最後に退却をお
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