ここに山県隊の一部が典厩隊を援けたため、柿崎隊も後退のやむなきにいたった。又前方で新発田隊と穴山隊の混戦があったが、穴山隊も死力をつくして激戦した。この時越の本庄、安田、長尾隊は甲の両角、内藤隊と甲軍の右翼で接戦し、甲軍の死傷漸く多く、隊長両角豊後守虎定は今はこれまでと桶皮胴の大鎧に火焔頭《かえんがしら》の兜勇ましく逞しき葦毛《あしげ》に跨り、大身の槍をうちふって阿修羅の如く越兵をなぎたおしたが、槍折れ力つきて討死した。
 ここに於て両角、内藤隊が後退し、柿崎隊と山吉隊は協力して甲の猛将山県隊を打ち退けたので、信玄の旗本の正面が間隙を生じた。謙信はこれをみてとり、その旗本を鶴翼《かくよく》の陣、即ち横にひろがる隊形に展開して、八幡原の信玄の旗本めがけて槍刀を揮って突撃した。その勢三千、謙信の旗本も、猛然之をむかえて邀撃し、右の方望月隊及び信玄の嫡子太郎義信の隊も、左備《ひだりそなえ》の原|隼人《はやと》、武田逍遙軒も来援して両軍旗本の大接戦となった。
 これより先山本勘助晴幸は、今度の作戦の失敗の責任を思い、六十三歳の老齢を以て坊主頭へ白布で鉢巻きをなし、黒糸縅しの鎧を着、糟毛《かすげ》の駿馬にうちまたがり三尺の太刀をうちふり、手勢二百をつれて岡附近の最も危険な所に出で、越軍の中に突入し、身に八十六ヶ所の重傷をうけて部下と共に討死した。
 この頃両軍の後備は全部前線に出て一人の戦わざる者もなく、両軍二万の甲冑《かっちゅう》武者が八幡原にみちみちて切り結び突きあった。壮観である。信玄の嫡子、太郎義信は時に二十四歳、武田菱の金具|竜頭《りゅうず》の兜を冠り、紫|裾濃《すそご》の鎧を着、青毛の駿馬に跨って旗本をたすけて、奮戦したことは有名である。その際|初鹿野《はじかの》源五郎忠次は主君義信を掩護《えんご》して馬前に討死した。越軍の竜字の旗は、いよいよ朝風の中に進出して来る。
 甲軍の旗色次第に悪く、信玄牀几の辺りに居た直属の部下も各自信玄を離れて戦うにいたり、牀几近くには二三近習のものが止ったにすぎない。しかし動ぜざること山の如き信玄は牀几に腰をおろして、冷静な指揮をつづけていた。
 信玄は黒糸縅しの鎧の上に緋の法衣をはおり、明珍《みょうちん》信家の名作諏訪|法性《ほっしょう》の兜をかむり、後刻の勝利を期待して味方の諸勢をはげましていた。時に年四十一歳。
 この日、
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