青木が、同窓の人たちが大学を出て、銘々に世の中に受け入れられていくのを見ながら、無味乾燥な田舎に、その青春時代を腐らせていったもどかしさや、苦しさや、残念さを考えると、雄吉は、自分自身の恨みを忘れて、青木のために悲しまずにはおられなかった。
 が、彼にとっては、煉獄といってよいほどの、苦しい生活を嘗めていたのにもかかわらず、青木はほとんど変っていなかった。雄吉のそうした憫みを受けるべく青木の顔は、昔の若さをほとんど失っていなかった。ことに青木の着ている合着は、雄吉の合着よりも新しくもあれば、上等の品でもあった。
 雄吉には、青木のそうした無変化さが、少し物足りなかった。雄吉の悪魔的な興味は、もう少し零落して、しなびきっている青木を見たかったのだ。
 雄吉は、何か話題を見つけようと思った。が、昔の生活を回想することは、青木にとっても、雄吉にとっても苦々しいことであったし、それかといって、現在の二人の生活には、話題となるべきなんの共通点もなかった。
「君はちっとも変らないじゃないか」
「ああ変らないよ」と、青木は答えた。その声は、昔の青木と少しも変らないように、雄吉にとっては威圧的に響いた。二人はまた黙ってしまった。雄吉は、友達の噂でも話してみようと思った。が、クラスのうちの誰も、皆立派に成功の道に辿りついていて、誰の噂をしても、青木に対して当てつけがましくきこえないのはなかった。雄吉は、やっと岡本という男のことを思い出した。その男は、大学を出るのも、一年遅れた上に、大学を出てからも、職業がなくてぶらぶらしていた。この男の噂なら、青木を傷つけることはないと思った。
「君は、岡本の噂をきいたことがあるかい」と、雄吉がきくと、
「岡本! あああいつか。あいつはまだ生きているのかい」と、青木は突き放すようにいった。「青木! あああいつか。あいつはまだ生きているのかい」という方が、もっと自然らしく思われるその青木が、こうした昔のままの傲慢さを持ち続けていることが、雄吉にはむしろ淋しかった。雄吉が、話題に困っている様子を見ると、青木は、
「どうだい、君や桑野は勉強しているかい。外国のものなんか、盛んに読んでいるだろうな」と、妙に皮肉に挑戦的にきいた。それは、昔の青木とほとんど変っていなかった。そうした青木の攻撃的《アグレシヴ》な言葉に、今でも妙な圧迫を感ずるのを雄吉は自分ながら不快に思った。青木と雄吉との間に起った交渉、それを雄吉は胸に彫りつけているのに、青木はそれをけろりと忘れたように、雄吉に対して、それに対するなんの遠慮も、払っていないらしかった。
「君の単行本はまだ出ないのかい」と、青木は雄吉がたじたじとすればするほど、揶揄《やゆ》とでもとればとれそうな質問を連発した。まだ三、四篇しか作品を発表していない雄吉に、単行本が出せるわけはなかった。
 雄吉は、向い合って話しておればおるほど、不思議な圧迫を感ぜずにはおられなかった。
 六年憎み続けてきた青木、今ではもう、彼の天分を尊敬したことさえ一つの迷妄だと自分では思っている雄吉にとって、青木はなおある不思議な魅力と威圧とを持っていた。久し振りに顔を見合わした当座こそ、恥かしさに面を挙げ得なかったほどの青木が、紅茶を一杯すすっているうちに、いつの間にか、雄吉の上手に出ているのを感じた。雄吉は、そのことがかなり不快であった。青木が全然失敗の男であり、しかも雄吉に対しては、とても償いきれぬような不義理を重ねていながら、いったん顔を見合わしていると、彼の人格的威圧が、昔のように厳として存在しているのが、雄吉は堪らなかった。雄吉は、どうかしてこの不快から逃れようと思った。が、青木と会ってから三十分にもならないのだから、体《てい》よく別れを告げるわけにもいかなかった。
「どうだい! 君、桑野のところへ行ってみないかい」と、ようやく雄吉は一策を考えた。桑野は、やはり同窓の一人で、作家としていちばん早く世間から認められた男であった。
 青木も賛成した。雄吉は給仕女を呼んで、勘定を払おうとした。すると青木はいつの間にか五円札を持っていて、「いや勘定は俺がしよう」といいながら、女中に五円札を渡した。雄吉は強いて争うべきことでもないので、青木のなすままにした。雄吉は、青木の、そうした弱味を見せないぞ、零落はしていないぞといったような態度が、かなり淋しかった。
 二人は、尾張町から上野行の電車に乗った。ふと、雄吉は停留所の電柱の時計を見ると、ちょうど三時を示していた。明日の四時といえばもう二十五時間だ。二十五時間経てば、青木――雄吉にとっては、永久の苦手ともいうべき危険性を帯びたこの男は、東京にいなくなってしまうのだ。もう少しの辛抱だと思った。そう思っていると、青木は、
「君! 雑誌記者なんて、ずいぶん惨めな報酬だというじゃないか。年末の賞与がたった五円という社があるそうじゃないか。君の方はどんなだい」といった。
 雄吉は、また始まったなと思った。
「僕の方は、そんなでもないな」と、答えながら、心のうちで二十五時間を繰り返した。そして「桑野のところへ連れて行けば、桑野がまたどうにか時間潰しをしてくれるに違いない」と、思った。


底本:「菊池寛 短編と戯曲」文芸春秋
   1988(昭和63)年3月第1刷発行
入力:真先芳秋 
校正:林めぐみ 
1999年1月6日公開
1999年8月27日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
 
前へ 終わり
全5ページ中5ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
菊池 寛 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング