らにしても今夜は遅い。主人は寝ているに違いない。それよりか、君も僕も一晩ゆっくりと寝ながら考えよう」
青木も、それに異存はなかった。雄吉と青木とは、枕を並べながら、眠られない一夜を明した。
雄吉の決心は、夜が明けても、動いていなかった。が、主人に自白するといった青木は、夜が明けると、そのことをけろりと忘れてしまったかのように、ただ目にいっぱい涙を湛《たた》えながら「済まない済まない」と、口癖のようにいい続けるだけでだった。
その日の午後に、雄吉は、わずかな身の回りのものを始末して、三年近く世話になった近藤家を去った。
近藤家を去った雄吉は、自分の壮健な肉体に頼るほかに、なんらの知己も持っていなかった。彼は、その翌日からすぐ激しい労働に従事した。もう卒業までは、わずかに三カ月である。学校を出て大学に入れば、自活の道も容易に見出されると思っていた。が、そうした苦しい奮闘のうちにも、彼は青木から得る感謝と慰藉を、自分の苦闘の原動力としようとさえ思っていた。
が、そこに雄吉にとって食うべき最初の韮《にら》があった。青木は雄吉の予期とは反対に、雄吉を敬遠し始めた。二人が会って話していると、そこに奇怪な分裂が存在し始めたことを、雄吉は気がつかずにはおられなかった。青木のことを雄吉は、いつの間にか青木! 青木! と呼び捨てにしている自分を見出した。彼は青木に対して、命令的な威圧的な態度に出る自分を見出した。それは、今までの青木と雄吉との位置の転倒であった。今まで、青木に踏みつけられていた雄吉が、奇抜な決死的な手段によって、青木を征服して、上から踏みつけているようであった。傲岸で自意識の強い青木は、雄吉のこうした態度に、どれだけ傷つけられたか分からなかったらしい。
「俺は貴様の恩人だぞ、貴様の没落を救ってやった恩人だぞ。俺のいうことに文句はあるまいな」と、いったような意識が、青木に対する雄吉の態度の底に、いつも滔々《とうとう》として流れていた。青木は、雄吉のそうした態度から来る圧迫を避けるためであったろう。教室へ出ている時にも、なるべく雄吉と話をすることを避けた。雄吉が、それを怨み憤ったのは、もとよりであった。二人の間には、大きな亀裂《ギャップ》が口をあけ始めていた。
高等学校を出ると雄吉は、学資を得る便宜から、京都の大学に入ることになった。さすがに雄吉との別離を惜しん
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