が、ともかく、俺はひとまず青木の罪を引き受けて、この主人の部屋を出よう。主人は、俺の後影をどんなに蔑み卑しんで見送ろうとも、俺は一人の天才、一人の親友を救うという英雄的行動を、あえてなした勇士のごとき心持で、この部屋を出てやろう。雄吉はそう決心すると、不思議なほど冷静になって、
「どうも相済みませんでした」と、挨拶しながら主人の部屋を辞した。長い廊下が、目の前の闇に光っていた。雄吉は芝居をしているような心持であった。すべての理性が、脹《ふく》れ返っている感情の片隅に小さく蹲っているような心持であった。その時に、雄吉の頭に、故郷に残している白髪の両親の顔が浮んだ。続いて、それを囲みながら、無邪気に遊び戯れている弟妹の顔が浮んだ。雄吉は水を浴びたようにひやりとした。お前は自分一人の妙な感激から、責任のある身体を、自ら求めて危難に陥れてもいいのかと、彼の良心が囁《ささや》いた。が、雄吉の陶酔と感激――人生の本当のものに対する感激ではなくして、人生の虚偽に対する危険なる感激――とに耽溺《たんでき》している彼には、そうした良心の声は、ほとんどなんの力さえなかった。
彼はその夜、青木の帰るのが待たれた。青木がその小切手に対して、明快な弁解をしてくれるかも知れないという、空疎な希望もあった。また青木が、自分の罪を自分で背負って、主人の前に懺悔する。すると、主人は雄吉の潔白とその犠牲的行動とに感激する。そして、雄吉の友情に免じて青木の罪をも不問にしてくれる。雄吉はそうしたばからしい空頼みにも耽っていた。
青木が帰ったのは、十一時を回っていた頃であった。彼はやはり、いつものように、つんと取り澄ました彼だった。雄吉が、常に青木に対して持っていた遠慮も、今日ばかりは、少しも存在しなかった。
「おい! 青木、ちょっとききたいことがあるんだがね」と、雄吉は青木のお株を奪ったように、冷静であった。
「なんだ!」と、青木は雄吉の態度が、少し癪に触ったと見え、雄吉の目の前に、突っ立ちながら答えた。
「まあ! 座れよ。立っていちゃ、ちょっと話ができないんだ。実は、この間の百円の小切手だがね、あれは君、本当に翻訳の前金として貰ったのかい」
「なんだ、そんなことを疑っているのかい。この間、君にもいったじゃないか。僕が矢部さんと共同でベルグソンの著書を片端から翻訳することになったんだよ。その前金として
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