らなかった。こうして、多くの人々から認められるにつけて、青木の自信と傲慢とは、正比例して増進していった。たしか彼が、近藤家へ移ってからのことであった。その頃、京都大学の哲学教授で、名声|嘖々《さくさく》として、思想界の注目をひいていた北田博士が珍しく上京して、大学の講堂で講演をした。それをききに行って帰ってきた青木は、雄吉の顔を見ると、いつものように、吐き出すような調子で、「北田博士から、あの哲学者らしい顔付を除けば、跡には何も残りゃしないぜ」と、いったまま、口をつぐんでしまった。雄吉は、北田博士に対しても、十分な尊敬を持っていたが、彼の崇拝する青木が天下の大学者たる北田博士を一言の下に片づけるその大胆さを、痛快に思わずにはおられなかった。
 雄吉の青木に対する尊敬は、少しも変らなかったが、近藤家に来てから、青木の生活は、妙にぐれ出していた。彼はむろん、実家が破産したということから、ずいぶん大きい打撃を受けていた上に、日常の生活においては、かなり享楽者《エピキュリアン》であった青木は、なんといっても不自由な寄食的生活と、月々給与せられる五円という小額な小遣いとのために、その生活をかなり虐げられているらしかった。彼は、見る見るうちに蔵書――高等学校生としては極度に豊富な蔵書を、売り払ってしまった。彼には、他人の家に宿食してからも、その享楽的な生活を更改することが苦痛らしく見えた。彼は蔵書を売り払った金で、やっぱり本郷あたりのカフェで、香りと味の強烈な洋酒の杯を享楽していた。そのうちに、青木の身辺から、消滅するものはその蔵書ばかりではなくなった。いつの間にか、彼の懐中時計は彼の机上から、影を隠していた。
 そんなことが起っているうちに、だんだん雄吉と青木との二人を襲う災害が近づいてきていたことを、雄吉は少しも気づかなかった。雄吉は、青木のそうした放逸な生活も、天才的な性格にはありがちな放縦として、むしろ好意をもって彼を見守っていた。
 三月の試験が間近に迫ってきた頃であった。雄吉が何かの用で少し遅れて、学校から帰ってきた。すると、よほど前から帰っていたらしい青木は、雄吉の目の前に、いきなりある小さい紙片を広げて見せた。
 それは、金銭上の取引きなどには疎《うと》い雄吉にとっては、かなり珍しい小切手であった。しかも、雄吉ら学生にとってはかなりの大金だといってもいい百円とい
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