曰く、西軍敗れなば父も我も戦場の土とならん。何ぞ兄上の助けを借らん。天正十三年以来豊家の恩顧深し、石田に味方するこそ当然である。家も人も滅ぶべく死すべき時到らば、潔《いさぎよ》く振舞うこそよけれ、何条汚く生き延びることを計らんやと。信幸怒って将《まさ》に幸村を斬らんとした。幸村は、首を刎《は》ねることは許されよ、幸村の命は豊家のために失い申さん、志なればと云った。昌幸仲裁して、兄弟の争い各々その理あり、石田が今度のこと、必ずしも秀頼の為の忠にあらずと、信幸は思えるならん。我は、幸村と思う所等しければ、幸村と共に引き返すべし。信幸は、心任せにせよと云って別れたと云う。
この会談の場所は、佐野天妙であるとも云い、犬伏《いぬぶし》と云う所だと云う説もある。此の兄弟の激論は、恐らく後人の想像であろうと思う。信幸も幸村も、既に三十を越して居り、深謀遠慮の良将であるから、そんな激論をするわけはない。まして、父と同意見の弟に斬りかけようとするわけはない。必ず、しんみりとした深刻な相談であったに違いない。
後年の我々が知っているように、石田方がはっきり敗れるとは分っていないのだから、父子兄弟の説が対立したのであろう。そして、本多忠勝の女婿《じょせい》である信幸は、いつの間にか徳川に親しんでいたのは、人間自然の事である。
そして、昌幸の肚の中では、真田が東西両軍に別れていればいずれか真田の血脈は残ると云う気持もあっただろう。敗けた場合には、お互に救い合おうと云うような事も、暗々裡には黙契があったかも知れない。父子兄弟とも、頭がいいのであるから、大事な場合に、激論などする筈はない。後世の人々が、その後の幸村の行動などから、そんな情景を考え出したのであろう。
真田が東西両軍に別れたのは、真田家を滅ぼさないためには、上策であった。相場で云えば売買両方の玉《ぎょく》を出して置く両建と云ったようなものである。しかし、両建と云うのは、大勝する所以《ゆえん》ではない。真田父子三人家康に味方すれば、恐らく真田は、五十万石の大名にはなれただろう。信幸一人では、やっと、十何万石の大名として残った。
しかし、関ヶ原で跡方もなく亡んだ諸侯に比ぶれば、いくらかましかも知れない。
信幸、家康の許へ行くと、家康喜んで、安房守が片手を折りつる心地するよ、軍《いくさ》に勝ちたくば信州をやる証《しるし》ぞと
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