た、よく見れば、旗の隅に細字で、小さく「棄旗」と書いてあった。「実に武略の人よ」と家康は、讃嘆したとあるが、これは些《いささ》かテレ隠しであったろう。
 寄手の軍が、こんな朱敗を重ねてぐずぐずしている間に、幸村は軍を勝曼院の前から石之華《いしのはな》表の西迄三隊に備え、旗馬印を竜粧《りゅうしょう》に押立てていた。
 殺気天を衝き、黒雲の巻上るが如し、という概があった。
 陽《ひ》も上るに及んで、愈々合戦の開かれんとする時、幸村は一子大助を呼んで、「汝は城に還りて、君が御生害《ごしょうがい》を見届け後果つべし」と言った。が、大助は「そのことは譜代の近習にまかせて置けばよいではないか」と、仲々聴かなかった。そして、「あく迄父の最期を見届けたい」と言うのをなだめ賺《すか》して、やっと城中に帰らせた。
 幸村は、大助の背姿《うしろすがた》を見、「昨日|誉田《ほんだ》にて痛手を負いしが、よわる体《てい》も見えず、あの分なら最後に人にも笑われじ、心安し」と言って、涙したという。
 時人、この別れを桜井駅に比している。幸村は、なぜ、大助を城に返して、秀頼の最後を見届けさせたか。その心の底には、もし秀頼が助命されるような事があらば、大助をも一度は世に出したいと云う親心が、うごいていたと思う。前に書いた原隼人との会合の時にも「伜に、一度も人らしい事をさせないで殺すのが残念だ」と述懐している。こう云う親心が、うごいている点こそ、却って幸村の人格のゆかしさを偲《しの》ばしめると思う。

[#7字下げ]幸村の最期[#「幸村の最期」は中見出し]

 幸村の最期の戦いは、越前勢の大軍を真向に受けて開始された。
 幸村は、屡々《しばしば》越前勢をなやましつつ、天王寺と一心寺との間の竜《たつ》の丸に備えて士卒に、兵糧を使わせた。
 幸村はここで一先ず息を抜いて、その暇に、明石|掃部助全登《かもんのすけなりとよ》をして今宮表より阿部野へ廻らせて、大御所の本陣を後《うしろ》より衝かせんとしたが、この計画は、松平武蔵守の軍勢にはばまれて着々と運ばなかった。
 そこで、幸村は毛利勝永と議して、愈々秀頼公の御出馬を乞うことに決した。秀頼公が御旗《おんはた》御馬印を、玉造口まで押出させ、寄手の勢力を割いて明石が軍を目的地に進ましめることを計った。真田の穴山小助、毛利の古林一平次等が、その緊急の使者に城中へ走っ
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