》の緒を締め、鎗をしごいて立った兵等の勇気は百倍した。
 さしもの伊達の騎馬鉄砲に耐えて、新附仮合の徒である幸村の兵に一歩も退く者のなかったのはそのためであろう。
 幸村は、漸く、敵の砲声もたえ、烟も薄らいで来た時、頃合はよし、いざかかれと大音声に下知した。声の下より、皆起って突かかり、瞬《またた》く間に、政宗の先手《さきて》を七八町ほど退かしめた。政宗の先手には、かの片倉小十郎、石母田大膳等が加っていたが、「敵は小勢ぞ、引くるみて討ち平げん」など豪語していたに拘らず、幸村の疾風の兵に他愛なく崩されてしまったのである。
 これが、世に真田道明寺の軍と言われたものである。
 新鋭の兵器を持って、東国独特の猛襲を試みた伊達勢も、さすがに、真田が軍略には、歯が立たなかったわけである。
 幸村は、それから士卒をまとめて、毛利勝永の陣に来た。
 そして、勝永の手を取って、涙を流して言った。「今日は、後藤又兵衛と貴殿とともに存分、東軍に切込まんと約せしに時刻おそくなり、後藤を討死させし故、謀《はかりごと》空しくなり申候。これも秀頼公御運の尽きぬるところか」と。
 この六日の朝は、霧深くして、夜の明《あけ》も分らなかったので幸村の出陣が遅れたのである。若《も》し、そんな支障がなかったら、関東軍は、幸村等に、どれ程深く切り込まれていたか分らない。
 勝永も涙を面に泛《うか》べ「さり乍《なが》ら、今日の御働き、大軍に打勝れた武勇の有様、古《いにしえ》の名将にもまさりたり」と称揚した。
 幸村の一子大助、今年十六歳であったが、組討して取《とっ》たる首を鞍の四方手に附け、相当の手傷を負っていたが、流るる血を拭いもせずに、そこへ馳せて来た。
 勝永これを見て、更に「あわれ父が子なり」と称《たた》えたという。
 こうして、五月六日の戦は、真田父子の水際《みずぎわ》立った奮戦に終始した。

[#7字下げ]真田の棄旗[#「真田の棄旗」は中見出し]

 五月七日の払暁、越前少将忠直の家臣、吉田|修理亮《しゅりのすけ》光重は能《よ》く河内の地に通じたるを以て、先陣として二千余騎を率い大和川へ差かかった。
 その後から、越前勢の大軍が粛々と進んだ。
 が、まだ暗かったので、越前勢は河の深浅に迷い、畔《ほとり》に佇《たたず》むもの多かった。大将修理亮は「河幅こそ広けれ、いと浅し」と言って、自ら先に飛込ん
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