家康怒って、大久保忠世、鳥居元忠、井伊直政等に攻めさせた。
 それを、昌幸が相当な軍略を以て、撃退している。小牧山の直後、秀吉家康の関係が、むつかしかった時だから、秀吉が、上杉|景勝《かげかつ》に命じて、昌幸を後援させる筈であったとも云う。
 この競合《せりあい》が、真田が徳川を相手にした初である。と同時に真田が秀吉の恩顧になる初である。
 その後、家康が秀吉と和睦《わぼく》したので、昌幸も地勢上、家康と和睦した。
 家康は、昌幸の武勇侮りがたしと思って、真田の嫡子信幸を、本多忠勝の婿にしようとした。そして、使を出すと、昌幸は「左様の使にて有間敷《あるまじき》也。使の聞き誤りならん。急き帰って此旨申されよ」と云って、受けつけなかった。
 徳川の家臣の娘などと結婚させてたまるかと云う昌幸の気概想うべしである。
 そこで、家康が秀吉に相談すると、
「真田|尤《もっとも》也、中務《なかつかさ》が娘を養い置きたる間、わが婿にとあらば承引致すべし」と、云ったとある。
 家康即ち本多忠勝の娘を養女とし、信幸に嫁せしめた。結局、信幸は女房の縁に引かれて、後年父や弟と別れて、家康に随《したが》ったわけである。
 所が、天正十六年になって、秀吉が北条|氏政《うじまさ》を上洛せしめようとの交渉が始まった時、北条家で持ち出した条件が、また沼田の割譲である。先年徳川殿と和平の時、貰う筈であったが、真田がわがままを云って貰えなかった。今度は、ぜひ沼田を貰いたい、そうすれば上洛すると云った。此の時の北条の使が板部岡江雪斎と云う男だ。
 北条としては、沼田がそんなに欲しくはなかったのだろうが、そう云う難題を出して、北条家の面目を立てさせてから上洛しようと云うのであろう。
 秀吉即ち、上州に於ける真田領地の中《うち》沼田を入れて、三分の二を北条に譲ることにさせ、残りの三分の一を名胡桃《なぐるみ》城と共に真田領とした。そして、沼田に対する換地は、徳川から真田に与えさせることにした。
 江雪斎も、それを諒承して帰った。所が、沼田の城代となった猪俣範直《いのまたのりなお》と云う武士が、我無しゃらで、条約も何にも眼中になく、真田領の名胡桃まで、攻め取ってしまったのである。昌幸が、それを太閣に訴えた。太閣は、北条家の条約違反を怒って、遂に小田原征討を決心したのである。
 昌幸から云えば、自分の面目を立て
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