灯の光の中でも、それと判つた。
「兎も角、一応診て下さい。」と、巡査は医者らしい男に云つた。運転手は顫へながら、車体に取り付けてある洋燈《ランプ》に、点火した。周囲が、急に明るくなつた。
「お伴《つれ》ぢやないのですね。」医者が検視をするのを見ながら、巡査は信一郎に訊いた。
「さうです。たゞ国府津から乗合はしたばかりなのです。が、名前は判つて居ます。先刻《さつき》名乗り合ひましたから。」
「何と云ふ名です。」巡査は手帳を開いた。
「青木淳と云ふ文科大学生です。宿所は訊かなかつたけれど、どうも名前と顔付から考へると、青木淳三と云ふ貴族院議員のお子さんに違ひないと思ふのです。無論断言は出来ませんが、持物でも調べれば直ぐ判るでせう。」
 巡査は、信一郎の云ふ事を、一々|肯《うなづ》いて聴いてゐたが、
「遭難の事情は、運転手から一通り、聴きましたが、貴君《あなた》からもお話を願ひたいのです。運転手の云ふことばかりも信ぜられませんから。」
 信一郎は言下に「運転手の過失です。」と云ひ切りたかつた。過失と云ふよりも、無責任だと云ひ切りたかつた。が、戦《をのゝ》きながら、信一郎と巡査との問答を、身の一大事とばかり、聞耳を澄ましてゐる運転手の、罪を知つた容子を見ると、さう強くも云へなかつた。その上、運転手の罪を、幾何《いくら》声高に叫んでも、青年の甦る筈もなかつた。
「運転手の過失もありますが、どうも此方《このかた》が自分で扉を、開けたやうな形跡もあるのです。扉さへ開《ひら》かなかつたら、死ぬやうなことはなかつたと思ひます。」
「なるほど。」と、巡査は何やら手帳に、書き付けてから云つた。「いづれ、遺族の方から起訴にでもなると、貴君にも証人になつて戴くかも知れません。御名刺を一枚戴きたいと思ひます。」
 信一郎は乞はるゝまゝに、一枚の名刺を与へた。
 丁度その時に、医者は血に塗みれた手を気にしながら、車内から出て来た。
「ひどく血を吐きましたね。あれぢや負傷後、幾何《いくら》も生きてゐなかつたでせう。」と、信一郎に云つた。
「さうです。三十分も生きてゐたでせうか。」
「あれぢや助かりつこはありません。」と、医者は投げるやうに云つた。
「貴君《あなた》もとんだ災難でした。」と、巡査は信一郎に云つた。「が、死んだ方に比ぶれば、むしろ命拾ひをしたと云つてもいゝでせう。湯河原へ行らつしやるさうですね。それぢや小使に御案内させますから真鶴までお歩きなさい。死体の方は、引受けましたから、御自由にお引き取り下さい。」
 信一郎は、兎に角当座の責任と義務とから、放たれたやうに思つた。が、ポケットの底にある時計の事を考へれば、信一郎の責任は何時果されるとも分らなかつた。
 信一郎は車台に近寄つて、黙礼した。不幸な青年に最後の別れを告げたのである。
 巡査達に挨拶して、二三間行つた時、彼はふと海に捨つるべく、青年から頼まれたノートの事を思ひ出した。彼は驚いて、取つて帰した。
「忘れ物をしました。」彼は、やゝ狼狽しながら云つた。
「何です。」車内を覗き込んでゐた巡査が振り顧つた。
「ノートです。」信一郎は、やゝ上ずツた声で答へた。
「これですか。」先刻《さつき》から、それに気の付いてゐたらしい巡査は、座席の上から取り上げて呉れた。信一郎は、そのノートの表紙に、ペンで青木淳とかいてあるらしいのを見ると、ハツと思つた。が、光は暗かつた。その上、巡査の心にさうした疑《うたがひ》は微塵も存在しないらしかつた。彼は、やつと安心して、自分の物でない物を、自分の物にした。

        七

 真鶴から湯河原迄の軽便の汽車の中でも、駅から湯の宿までの、田舎馬車の中でも、信一郎の頭は混乱と興奮とで、一杯になつてゐた。その上、衝突のときに、受けた打撃が現はれて来たのだらう、頭がヅキ/\と痛み始めた。
 青年のうめき声や、吐血の刹那や、蒼白んで行つた死顔などが、ともすれば幻覚となつて、耳や目を襲つて来た。
 静子に久し振に逢へると云つたやうな楽しい平和な期待は、偶然な血腥《ちなまぐさ》い出来事のために、滅茶苦茶になつてしまつたのである。静子の初々しい面影を、描かうとすると、それが何時の間にか、青年の死顔になつてゐる。「静子! 静子!」と、口の中で呼んで、愛妻に対する意識を、ハツキリさせようとすると、その声が何時の間にか「瑠璃子! 瑠璃子!」と、云ふ悲痛な断末魔の声を、思ひ浮べさせたりした。
 馬車が、暗い田の中の道を、左へ曲つたと思ふと、眼の前に、山|懐《ふところ》にほのめく、湯の街の灯影が見え始めた。
 信一郎は、愛妻に逢ふ前に、何うかして、乱れてゐる自分の心持を、整へようとした。なるべく、穏やかな平静な顔になつて、自分の激動《ショック》を妻に伝染《うつ》すまいとした。血腥い青年
前へ 次へ
全157ページ中10ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
菊池 寛 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング