「失礼ですが、今の汽車で来られたのですか。」
 と、信一郎は漸く口を切つた。会話のための会話として、判り切つたことを尋ねて見たのである。
「いや、此の前の上りで来たのです。」と、青年の答へは、少し意外だつた。
「ぢや、東京からいらつしたんぢやないんですか。」
「さうです。三保の方へ行つてゐたのです。」
 話しかけて見ると、青年は割合ハキ/\と、然し事務的な受け答をした。
「三保と云へば、三保の松原ですか。」
「さうです。彼処《あすこ》に一週間ばかりゐましたが、飽きましたから。」
「やつぱり、御保養ですか。」
「いや保養と云ふ訳ではありませんが、どうも頭がわるくつて。」と云ひながら、青年の表情は暗い陰鬱な調子を帯びてゐた。
「神経衰弱ですか。」
「いやさうでもありません。」さう云ひながら、青年は力無ささうに口を緘《つぐ》んだ。簡単に言葉では、現はされない原因が、存在することを暗示するかのやうに。
「学校の方は、ズーツとお休みですね。」
「さうです、もう一月ばかり。」
「尤も文科ぢや出席してもしなくつても、同じでせうから。」と、信一郎は、先刻《さつき》青年の襟に、Lと云ふ字を見たことを思ひ出しながら云つた。
 青年は、立入つて、いろ/\訊かれることに、一寸不快を感じたのであらう、又黙り込まうとしたが、法科を出たものの、少年時代からずつと文芸の方に親しんで来た信一郎は、此の青年とさうした方面の話をも、して見たいと思つた。
「失礼ですが、高等学校は。」暫らくして、信一郎はまたかう口を切つた。
「東京です。」青年は振り向きもしないで答へた。
「ぢや私と同じですが、お顔に少しも見覚えがないやうですが、何年にお出になりました。」
 青年の心に、急に信一郎に対する一脈の親しみが湧いたやうであつた。華やかな青春の時代を、同じ向陵《むかうがをか》の寄宿寮に過ごした者のみが、感じ合ふ特殊の親しみが、青年の心を湿《うる》ほしたやうであつた。
「さうですか、それは失礼しました。僕は一昨年高等学校を出ました。貴君は。」
 青年は初めて微笑を洩した。淋しい微笑だつたけれども微笑には違ひなかつた。
「ぢや、高等学校は丁度僕と入れ換はりです。お顔を覚えてゐないのも無理はありません。」さう云ひながら、信一郎はポケットから紙入を出して、名刺を相手に手交した。
「あゝ渥美さんと仰《おつ》しやいますか。僕は生憎名刺を持つてゐません。青木淳と云ひます。」と、云ひながら青年は信一郎の名刺をぢつと見詰めた。

        六

 名乗り合つてからの二人は、前の二人とは別人同士であるやうな親しみを、お互に感じ合つてゐた。
 青年は羞み家であるが、その癖人一倍、人|懐《なつこ》い性格を持つてゐるらしかつた。単なる同乗者であつた信一郎には、冷めたい横顔を見せてゐたのが、一旦同じ学校の出身であると知ると、直ぐ先輩に対する親しみで、懐《なつ》いて来るやうな初心《うぶ》な優しい性格を、持つてゐるらしかつた。
「五月の十日に、東京を出て、もう一月ばかり、当もなく宿《とま》り歩いてゐるのですが、何処へ行つても落着かないのです。」と、青年は訴へるやうな口調で云つた。
 信一郎は、青年のさうした心の動揺が、屹度青年時代に有勝《ありがち》な、人生観の上の疑惑か、でなければ恋の悶えか何かであるに違ひないと思つた。が、何う云つて、それに答へてよいか分らなかつた。
「一層《いつそ》のこと、東京へお帰りになつたら何うでせう。僕なども精神上の動揺のため、海へなり山へなり安息を求めて、旅をしたことも度々ありますが、一人になると、却つて孤独から来る淋しさ迄が加はつて、愈《いよ/\》堪へられなくなつて、又都会へ追ひ返されたものです。僕の考へでは、何かを紛らすには、東京生活の混乱と騒擾とが、何よりの薬ではないかと思ふのです。」と、信一郎は自分の過去の二三の経験を思ひ浮べながらさう云つた。
「が、僕の場合は少し違ふのです。東京にゐることが何うにも堪らないのです。当分東京へ帰る勇気は、トテもありません。」
 青年は、又黙つてしまつた。心の中の何処かに、可なり大きい傷を受けてゐるらしい青年の容子は信一郎の眼にもいたましく見えた。
 自動車は、もうとつくに小田原を離れてゐた。気が付いて見ると、暮れかゝる太平洋の波が、白く砕けてゐる高い崖の上を軽便鉄道の線路に添うて、疾駆してゐるのであつた。
 道は、可なり狭かつた。右手には、青葉の層々と茂つた山が、往来を圧するやうに迫つてゐた。左は、急な傾斜を作つて、直ぐ真下には、海が見えてゐた。崖がやゝ滑かな勾配になつてゐる所は蜜柑畑になつてゐた。しら/″\と咲いてゐる蜜柑の花から湧く、高い匂が、自動車の疾駆するまゝに、車上の人の面《おもて》を打つた。
「日暮までに、熱海に着く
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